尖閣諸島問題のごたごたの最中、中国の多くの書店から日本人による著書が取り払われたという報道が確かにあったが、この出来事を受けて、村上春樹が9月28日の朝日新聞に『魂の行き来する道筋』という文を寄せている。
唖然とするほど、馬鹿らしい文だ。『海辺のカフカ』の小説的失敗、やはり『1Q84』での小説的大失敗の後で、またやったか、と思う。世界的知名度の高まりは留まるところを知らず、ノーベル賞をいつ授与されるかと噂の絶えない中で、しかし、作品の出来具合はどんどんと迷走中。褒めまくるのは他の古今東西の作家たちの厖大な作品に不感症か、それとも読解力を喪失したかした信者たちと、販売促進評論を書いて多少のゼニを手に入れ続けようとする評論家連、さらには、現代の文学にも通じているぞと見せたい文学部のセンセの一部ばかりで、すでに若者層をはじめとしてムラカミからは大がかりに離れ出している現状もあるが、大丈夫か、世界のムラカミ?と思ってしまう。
『魂の行き来する道筋』で彼が言っていることの中心は、「中国側の行動に対して、どうか報復的行動をとらないでいただきたい」ということである。「もしそんなことをすれば、それは我々の問題となって、我々自身に跳ね返ってくる」からだそうだ。
ムラカミ好きの読者たち、ましてや世界のファンたちをずいぶんと裏切った言い方ではないだろうか?…と、村上をさほど好むわけではない一般読者としては思ってしまう。
ここで彼が言う「我々」とは、どう見ても日本人たちのことを指すと思えるが、微々たる冊数しか売れないマイナー作家と違い、今の彼は世界的大作家。一冊出せば数億の印税が入る国際的流行作家なのだから、「我々」などという言い方で日本人だけを特権的に囲み込む言い方はどんなものかな…と思われるのだが、ムラカミ派の人たちはこれでいいのだろうか?
私がもし、中国人の村上ファンだったら、「あれ?」と、微妙にいやな感じを受けると思う。「あれ?この人、いざとなると、日本人だけに向けて『我々』って言っちゃう人?」って。
もちろん、村上は日本人作家なのだから、日本人に向けて「我々」と言うのはいっこうにかまわないのだが、日本人の本を店頭から取り除くような中国人の態度に対して、歴然と人間の質における「国境線」を引いて、「我々」というふうにコチラ側の道徳や紳士的態度や…ようするに人間の質的優位を確保しようとする方向性を打ち出すというのは、ひょっとして、彼自身の今後の国際的商売に関わるような失言じゃないのかな、と思ってしまうのである。
「中国側」では今、あきらかに大きな問題が起こっており、その渦中であり、それは政治的であるばかりか、社会的でもあり、経済的でもあり、人間的でもある大問題であるのは、誰の目にもはっきりしているが、(私としては、放射能物質汚染水や汚染気体を世界中にどんどん洩らし続けているような日本側にも途方もない大問題が起こっている最中である、ともちろん思っているが…)、いまや人間というものの根源的問題を扱い続ける世界的大作家である村上春樹にして、どうして、「中国側の行動」自体を「我々の問題」と見なさないでいられるのか、村上はそれほどまでに内向きの作家だったのか、と、他人事ながら、たくさんの世界的村上ファンたちの心中を察しつつ、もうちょっとのところで遺憾の意を表したくなってしまいそうでさえある。
村上はさらにこう続ける。
「逆に『我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない』という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。それはまさに安酒の酔いの対極に位置するものとなるだろう」。
いろいろと突っ込みどころ満載で、こういう文を偏向報道の雄、朝日新聞に載せてしまうところがさすがに大作家たるものか、と感心させられもするが、まぁ、とりあえずは、これは日本人にむけて言っているかのように書いた中国人批判である。今の中国人が、こういう態度をとれていないという前提の上で、「我々」日本人はしかし、しっかり他国の文化を敬う態度をとり続けつつ、「静かな姿勢を」示そうよネ、というのである。中国人諸君、言われておりますですよ?どうでございますかね?これが村上春樹の本質でございますよ。あなたがたは、とにかくダメだよね、って言われているんです。日本人は違う姿勢を示せるかもしれないけれど、とにかく、中国人はもうダメですよね、ってことなんです。
なんだか、それにしても、すごい村上春樹である。たくさんの中国人ファンを持っているのに、いいのか、言っちゃって?ムラカミ商品の中国市場が縮小しちゃうぞ?…などと、また、他人事ながら要らぬ心配をしてしまいかねないが、彼のここのところの発言のすごさはこれだけではない。
『我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない』とか、「静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ」とか言ってしまっているのである。この人は、一国や一国内の社会のこと、それを構成する一人一人の人間たちというもののまとまらなさ、さらには、多種多様な価値観と考え方と感じ方などが増殖し続けるがゆえの未来永劫型無限的まとまらなさ、そうしたまとまらなさの徹底的な威力とリアリティとどうしようもなさを、いったい、どう思っているんだろう?大丈夫か、村上の社会観、国家観は?…と、またまた、要らぬ心配をしてしまいそうになる。
「我々」などと村上にまとめられたくはないね、あたしは。
そう思う人間が日本人の中にたくさん居るってことを、この人はどこかで忘れてきてしまったんじゃないのか?
ましてや、「我々にとって大事な達成」だなんて、国家プロジェクトではあるまいし、国の価値観の方向性を勝手に決めて演説してくれ、なんて、いつアンタに頼んだってのさ?
こう言ってピンと来ない人たちは、これが、村上から発せられたのではなく、石原慎太郎や橋下徹から発せられたのだと想像してもらいたい。それでも足りないなら、野田佳彦や麻原彰晃あたりを想像してもらってもいい。著名人というのは、こんなもんですか?勝手に国や国民の「大事な達成」がいかなるものであるかを決めて、そちらのほうに向かうべく「静かな姿勢」を示せよ、いいな、国民どもよ、「我々」よ、とご親切にも有難迷惑にも旗を振ってくださるものですか?
出してきた「安酒」なる喩えを使い続けながら、「安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない」と彼は最終連で〆にかかるが、なんとまぁ、「魂」と来たものだ。大きく出たものである。
もちろん、「魂」という言葉を軽々と使う権利は誰にもあり、妙な言葉狩りに加わりたいなどと思うわけではないのだが、「心」ぐらいで満足しておけないものだろうか、と思ってしまう。
いわずもがなのことだが、「魂」という言葉は日本人には格別に含蓄深い言葉であり、受けとめられ方はあまりに多岐で、下手に使うと収まりがつかなくなる。「心」よりも深く神秘的な意味作用を伴って使用されがちなのはほぼ万人に共通しているが、「精神」や「意識」、「霊」などとの比較の中にこの語の位置づけを探ろうとすると、これらの語義のネットワークの中だけでもさまざまな相矛盾した使われ方があるのに気づかされ、デリダでもあるまいし、一単語の語義を可能なかぎり単一化して使用すべき散文においては、よほど限定をつけ、注意して用いないと、安手の、それこそ意味上の「安酒」ふうのミスティフィケーション効果を引き起こしてしまう。領土問題についての外交術における初歩的な対処のしかたである曖昧化、非決定手法さながらに、意味やイメージなどの積極的曖昧化、非決定法を旨とする詩歌においてこそ、なんとか安全に使用できる言葉なのであって、多くの読者が片手間にサッと読み飛ばす新聞記事に用いるのは、それも、2012年の日本の秋という、新聞がすっかり信頼を失い切った時期において用いるというのは、賢明とはいえない。
村上春樹の書き方から見て、彼の言う「魂」が、精神的活動とか文化活動いう程度の意味で受けとめておけばよいのだろうとはわかるが、そうだとすれば、「魂」を「霊」よりも高次のものとして理解することで成立する心霊観よりも、むしろ、ルドルフ・シュタイナーの翻訳に見られるような心霊観のほうに近い、心霊学のある種の一派の用語上の語義体系が村上の思考の背景にはあるということなのだろう。シュタイナーの翻訳においては、高次から低次にむかって、霊―魂―体、というふうに階層をなす理解がなされているが、語の使用法から見れば、こちらのほうに近い態度をとっていることになる。そういう部分のよく出ているシュタイナーの言説を少し思い出しておこう。
「(…)地上を生きるためには、霊と魂と体が一緒に働いていなければならない(…)人間の霊が今の状況を理解するには、感覚的現実を理解できなければなりませんが、魂が霊にこの理解を生じさせなければ、霊だけでは状況を把握できないのです。眼が外界の印象を受けとり、そしてその印象が私たちの霊にまでとどくためには、魂が仲介者にならなければなりません。(…)」*
多くの日本人が、ふつうの生活の中の慣用では、「魂」よりも「霊」のほうがいっそう低位のものだという感覚を持っているにちがいない。死んだ人の「霊」が出た、とはいうが、「魂」が出た、とは言わないのがふつうの日本語感覚であり、「魂」となって家族を守ってくれている、とはいうが、「霊」となって守ってくれている、とはあまりいわない。「霊」と「魂」の使用上の区別は曖昧とはいえ、どちらかといえば「魂」は、「霊」よりもいっそう不純な自我の除かれた純粋かつ精神的な善としての非物質的実体である、といった把握が日本にはある。シュタイナーの翻訳においては、こうした日本的な「霊」と「魂」の使い分けと逆の翻訳がなされており、読んでいこうとする時に一瞬、戸惑いがちになるところだ。村上が、こうしたシュタイナー系の「霊」>「魂」体系の用語法を採用しているのは、彼がじつはシュタイナーに親近感を持っているからかもしれないし、あるいはまた、昭和後期から小説家や散文家たちがあまりに安易に使うようになってしまった「魂」の用語法を継承してしまっているからかもしれない。「魂」は、アイロニーとユーモアなしには決して用いてはならない単語だが、癒し系やスピ系に繋がっていくことになった奇妙にナイーブな、真正直な「魂」の使用は、平成に入ってからは目も覆わんばかりになってしまった。
『魂の行き来する道筋』という文では、前半で、「この二十年ばかりの、東アジア地域における最も喜ばしい達成のひとつ」が振り返られ、「そこに固有の『文化圏』が形成されてきた」と書かれてもいる。「中国や韓国や台湾のめざましい経済的発展」により、「各国の経済システムがより強く確立されることにより、文化の等価的交換が可能になり、多くの文化的成果(知的財産)が国境を越えて行き来するようになった」そうで、「共通のルールが定められ、かつてこの地域で猛威をふるった海賊版も徐々に姿を消し(あるいは数を大幅に減じ)、アドバンス(前渡し金)や印税も多くの場合、正当に支払われるようになった」と村上春樹は書く。そうして、「この『東アジア文化圏』は豊かな、安定したマーケットとして着実に成熟を遂げつつある。まだいくつかの個別の問題は残されているものの、そのマーケット内では今では、音楽や文学や映画やテレビ番組が、基本的には自由に等価に交換され、多くの数の人々の手に取られ、楽しまれている。これはまことに素晴らしい成果というべきだ」…そうだ。
ようするに、商売人の立場としてのお話である。「文化」などという言葉は、こういう時には挟まないというのが、本来ならば仁義である。
TPP推進派そのものの精神がはっきりと出た箇所で、さらに言えば新自由主義の露呈箇所でもあり、経団連がずいぶん喜びそうな箇所となっているが、端的にいえば、村上の本の販売がちゃんと行われて、それに見合った儲けがちゃんと著者や出版社側に入るような商業圏が東アジアにせっかくできたというのに、これが壊されるのは黙ってはおれぬ、ちゃんと金を入れない闇商人は容赦せんゾ、と言いたいわけだろう。ここにはここのアウトレイジ・ビヨンドがあるのである。
もとより嗜好品であり、「趣味の…」とつねに冠されるべき文芸作品の世界で、あまりに生まじめに善し悪しを問うてしまうのは無粋でもあれば、愚行でもある。村上春樹のほうが団鬼六や川上宗薫よりも優れているかのごとく見做す偏向思想ほど恐ろしくも馬鹿らしいものはなく、蓼食う虫も好き好き、あらゆる芸術作品同様、文芸作品などなんでもアリでよろしいわけで、金子みすずふうに言えば「みんなちがって、みんないい」のだから、結局は村上春樹がどうのさばってもかまわないにはちがいないのだが、それでも個人的には、あまりに巨大な商売戦略によって、「この二十年ばかり」日本でムラカミハルキ一辺倒になってしまったのを不健康な失われた二十年として眺めているので、ああそうか、ムラカミさんは、儲かって儲かってしかたがなかった「この二十年ばかり」を、やはり「このような好ましい状況」としか思っていないわけだったのか、と思わされてしまう。
「各国の経済システムがより強く確立されることにより、文化の等価的交換が可能になり」と彼はスラッと言ってしまうが、もし人間の文化なるものを広く捉えようとするならば、こうしたシステムの確立やそれに基づく「等価的交換」が破壊し去る多くの文化もあるはずだろう。文化なるものは、ある種類の「経済システム」の確立とそれによる「等価的交換」の軌道に乗るものばかりではない。村上がいう「文化」は、現行の経済システムに素直に乗ってくれる商品のこと、あるいは、そうした商品に落とし込めるものだけであって、バーコードがつかなかったりロジスティクスに素直に乗らないような文化は排除されてしまう。
こうした経済システムのおかげで「多くの文化的成果(知的財産)が国境を越えて行き来するようになった」とも彼は言うのだが、では具体的にはどんなものかといえば、アメリカの大学の「多くの韓国人・中国人留学生」が「驚くほど熱心に」読んでくれている「僕の本」であったり、日本人が「韓国の文化に対して以前よりずっと親しみを抱く」契機となった「韓国のテレビドラマ」であったりする。具体例が少なすぎるのもナンだが、ひとつは我田引水、もうひとつは、質的にも、配給理由的にもなにかと悪評の絶えない韓流ドラマだというのがずいぶんとサビシイ。どうしちゃったのか、ムラカミ?
せっかく二十年ほどかけて出来上がってきた東アジアマーケットでの自著の売り上げが、尖閣問題や竹島問題ぽっちのことで減少するのはいやだなア、まいっちゃうよなア、という文でした、…というわけで、まぁ、素直といえば素直な売文商人としての述懐ではある。大江健三郎ならば、もう少し渡辺一夫ぶって、林達夫を振りかけ、ブレイクやイエーツあたりも経由してもちろん「魂」も登場させてしまいながら、分けのわからない文化文化した文を奏するところだろうが、商人に徹するところにチャンドラーふうの美学を出しているのか、ここのところはさすがにムラカミハルキではある。しかしながら、次のようなことを、本気でか、希求としてか、夢まぼろしを追う姿を演出しようとしてか、はっきりと言ってしまえる村上は、やはり、もう終わっている。
「国境線というものが存在する以上、残念ながら(というべきだろう)領土問題は避けて通れないイシューである。しかしそれは実務的に解決可能な案件であるはずだし、また実務的に解決可能な案件でなくてはならないと考えている。領土問題が実務課題であることを超えて、『国民感情』の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる」。
…この人は、本当に馬鹿なのだろうか?
領土が関わった「案件」が次第に煮詰まって「問題」になってくる時点において、はたして「実務的」という言葉で正確になにを言い表したいのかもわからないが、仮に「実務的に解決可能な案件」であるとすれば、それは領土「問題」になっていないレベルの話である。「実務課題であることを超えて、『国民感情』の領域に踏み込んでくる」時にこそ、はじめて「領土問題」となるのであって、それ以前ならば双方の国の役人たちの帳尻合わせで済んでしまう。こんな認識は、国際的な外交問題のイロハであろう。
それとも、彼が言う「実務的」とは、日本が虚心坦懐に尖閣諸島の中国帰属を認め、また竹島の韓国帰属を認めて素直に返還するべし、ということなのだろうか。尖閣などはカイロ宣言とポツダム宣言に照らして考えれば、どう見ても理屈上は中国領なので、それはそれで大いにけっこうなことと思われるけれども、政府も一般国民も、そうした「実務的」な動きができるとは思えまい。「実務的」ということを言うのなら、精神や心、思考力にもそれなりの「実務的」なるものがあり、これらは往々にして、物質的な「実務」や事務的な「実務」と矛盾したり衝突したりするものなのである。そこのところを底の底までわかっていないようでは、まぁ、人間学のジェネラリストたる文学者とは呼び得ないであろう。
率直に言って、日本人、それも、原発事故以後の偏向報道や意図的な無報道をさんざん見せつけられた後の今になってもわざわざ朝日新聞を読むようなタイプの日本人に何ごとか物申したいというのならば、同じように当事国である中国や韓国の新聞にも、むこう側向けに「どうか報復的行動をとらないでいただきたい」、「『我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない』という静かな姿勢を示すことができれば、それは」あなたがた「にとって大事な達成となるはずだ」ヨ、と訓導してやったらよろしい。日韓併合の際に日本人教師たちが優しく各地で行ったであろうように。村上のそういう記事を読んだ中国や韓国の読者がどのような反応を彼に示すことになるか、まぁ、容易に想像はつくが、先ずはそういうところからちゃんとやってみるべきだよ、ムラカミさん。
いつも巧妙に安全圏にいて、あたかも人間のなにごとかを深くしっかり考えています、といわんばかりのポーズ。そうして、結局、商売ばかり。
ムラカミさん、あなたは卑怯だ。
*ルドルフ・シュタイナー「魂について」(高橋巌訳、春秋社、2011)、p98-99.