2012年4月27日金曜日

サマー・クリエイション





無用の事を為さずんば何をもって有限の生を尽くさん。
(吉川幸次郎)



 美しい白い砂浜だったように思うが、白くはなかったかもしれない。
 炎天下、白いワンピースの女が立ち止まり、片足から靴をはずして、中に溜まった砂を落とす。砂時計のように、砂はさらさらと浜に落ちていく。
 靴はヒールだったか、サンダルだったか。
 靴も白かったか。
 つばの広い日よけの帽子をかぶっていたようでもある。
 …ただそれだけの光景。
 そこに歌が流れていく。
英語の女声で、「マイ・サマー・クリエイション…」と聞える。


子供の頃、決定的な印象を受けたMAX FACTORのテレビCMだ。
面白いCMや印象的なCMは毎年いくらもあったが、このCMには美学的といっていいレベルでの衝撃を受けた。記憶の奥で、うろ覚えの「マイ・サマー・クリエイション…」という歌の流れをなんども辿り直した。
映像も鮮烈だった。高度成長期の子供心のどこかが、以後、このCMにあったような異国の浜辺のヴァカンスの光景へと誘われることになった。日本の夏の光景は、物たりなく、侘しいものと映るようになった。どこへ旅行しても、日本の夏は貧相だった。
それほど強烈な印象を受けたにもかかわらず、本当に映っていた光景はどうだったのか、今あらためて甦らせようとすると、細部はどこもあやふやになっている。スタイルのいい、裕福なさっぱりした雰囲気の外国人女性が靴に入った砂を出す。それはよく覚えているのだが、他の部分はどれも、自分が想像で付け足してしまったもののように感じる。


10年以上前にインターネットでなんどか調べてみたが、それらしきものは、なかなかヒットしなかった。あのCMにも、歌にも、二度と接近することはできないものと諦めるようになった。先日、ふと思い立ち、ひさしぶりに調べ直してみた。すると、意外に容易に歌に行き着いた。ブログで言及したり、Youtubeにアップしたりする人たちが増えていた。
CM映像自体はネットでも見つからないが、歌だけは聴くことができる。
1971年夏の大ヒット曲だったとはじめて知ったが、当時は、ときどきテレビで見かけるCMだけで満足していた。歌っているのがジョーン・シェパードJoan Shepherdというアメリカ人歌手だというのも今頃になって知ったことだが、これが、あの千昌夫の元夫人の〝シェパードさん〟だったとわかり、驚かされた。60年代にはニュー・グレン・ミラー楽団の専属歌手だったという。今さらながら、これにも驚かされた。
Summer Creation』はジョーン・シェパード自身の作詞作曲で、歌詞はこのようなものだったらしい。


I'm as free as I can be
Flying high above the clear blue sea
In a world waiting just for me
Waiting just for me, Mm-mm-m-m-m
My summer creation

You have taken me
Far away from all the everyday life
Oo-oo-ooh, I am free
There's nothing that I cannot do
No one I cannot be
In a world waiting just for me
Waiting just for me
My summer creation

I'm as free as I can be
Doo-doo-doo-doo-doo
In a lovely world that's mine, all mine
Waiting just for me, hmm-mmm-mmm
Summer breeze

Whisper softly through my hair
Far away from all the everyday life
Oo-oo-ooh, I am free
Doo-doo-doo-doo-doo
There's no one I cannot be
In a lovely world that's mine, all mine
Waiting just for me
My summer creation
  
  全曲を聴くのもはじめてだし、全部の歌詞を読むのもはじめてだが、こうして見てみると、きれいで気持ちはいいが、さほど大した歌詞ではない。しかし、CMで使っていた2連か4連のところの効果には見事なものがあった。「In a world waiting just for me」から「Waiting just for me」に移って、「My summer creation」に流れていくところのメロディーは絶妙で、大阪万国博が終わった翌年の子供の心は、陶然とさせられてしまった。この歌の奇妙なまでの晴れやかなやさしさ、さっぱりしていながら潤いのある心持ちは、いくらか牽強付会ながら、前年に三島由紀夫の自死とともに多くの蟠りが消滅していったためでないか、と思いたくなる。
 


1971年は、南沙織が『17歳』でデビューした年でもある。6月だった。「誰もいない海、ふたりの愛を確かめたくって、あなたの腕をすり抜けてみたの。走る水辺のまぶしさ、息もできないくらい、はやく、つよく、つかまえに来て…」と始まる歌は新鮮で、『サマー・クリエイション』同様、〈海〉へと時代を誘っていた。
 http://www.youtube.com/watch?v=SRWQKfoemiE


17歳といえば、この年には、やはり17歳だった荒井由実、今の松任谷由実が、元タイガースの加橋かつみに『愛は突然に…』を提供することで作曲家デビューをしている。八王子の老舗荒井呉服店の娘である彼女は、翌年の1972年、染色を専攻するために多摩美術大学に入学するが、この年に歌手デビューもする。ファーストアルバム『ひこうき雲』は73年。しかし、数年かけて深夜番組などで盛り上げられ、有名になっていった荒井由実の最初期は、テレビぐらいからしか歌謡曲に接しない子供には、まだ存在していないも同様だった。むしろ、アラン・ドロン最盛期を捉えたレナウンのダーバンのCM(1971年)のほうが、よほど身近だった。
このCMは、淀川長治が解説していた「日曜洋画劇場」の枠で放映されていたという。あるブログによれば、「レナウン」という社名と「ダーバン」というブランド名の結びつきにはちゃんとした必然性があるらしい。イギリスの皇太子エドワードが1923年に来日した際の御召艦は「レナウン」、供奉艦としてそれに同行してきた巡洋艦が「ダーバン」だったという。面白いトリビアだが、使われている音楽が小林亜星の作曲だったというのにも驚く。アラン・ドロン出演のダーバンのこのCMシリーズは、今でもずいぶん人気があるらしく、ネット上では様々な情報が手に入る。


 レナウンのテレビCMといえば、シルヴィ・バルタンが日本語を歌っているワンサカ娘のCMがある。何年のCMかわからないが、60年代だろう。「いいわ」と言うべきところだけ、フランス語で「C’est bien!(セ・ビヤン!)」と歌っていて、これがとてもかわいい。シルヴィ・バルタンはふたつの前歯のあいだの隙間がチャームポイントだが、それもよく見える。初期のけだるいような、どことなく死顔のような特徴もありのままで、ソフィア近郊生まれのブルガリア人である彼女の、身体的な非フランスらしさを感じさせる。
 

 話を70年代に戻すが、『サマー・クリエイション』や『17歳』から遠くない頃、子供の心には「ケンとメリー」という歌がしみじみと流れていた。BUZZのデビューシングルの『ケンとメリー~愛と風のように~』で、これは1972年の日産スカイラインのCMのテーマソングだった。
「虹のむこうへ出かけよう、今が通り過ぎて行くまえに…」という歌詞には、青春の自由さとうるわしさがあると同時に、喜びも軽さも束の間のものだという認識が出ていて、どこかさびしげだ。「忘れた朝を、ふたりここで見つけたよ…」と始まる赤い鳥の『忘れていた朝』につながる雰囲気があるように感じるが、調べ直してみたら、赤い鳥のこの曲は1971年のものだった。ちなみに、あの『翼をください』も同年の作品。ともに村井邦彦作曲、山上路夫作詞だが、村上邦彦は東海林修に学び、『シェルブールの雨傘』のミシェル・ルグランに師事したという。時代に共通して流れる雰囲気を、村井邦彦もBUZZも捉えたのかもしれないが、むしろ、村井邦彦のほうが影響を与えたのかもしれない。荒井由実をデビューさせたり、YMOをプロデュースした人なので、深入りして研究していくべき面白さがある。
 ところで、「虹のむこうへ出かけよう…」という『ケンとメリー~愛と風のように~』の歌詞は、もちろん、ジュディー・ガーランドが歌った『Somewhere over the rainbow』を思い出させる。
だが、EMIによれば、この歌のヴァージョンとしては、今はハワイの歌手、崇高なまでの肥満体で有名だったIZこと、故イズラエル・カマカヴィヴォオレIsrael Kamakawiwo’oleがカヴァーしたヴァージョンのほうが有名になりつつあるし、求められてもいるそうだ。
『ケンとメリー~愛と風のように~』のCMに出ていたイケメンのハーフのお兄さんは陣内たけしというそうだが、この後すぐに事故で亡くなったという。当時は知るよしもなく、子供としては、あんなかっこいい青年になってドライブできたら楽しいだろう、と思うばかりだった。


 1970年版の「愛のスカイライン」というCMも記憶につよく残っている。
見直してみると、これはずいぶん古めかしいCMに感じられるが、これに比べて「ケンとメリー」版は格段になにかが新しくなっているし、ポエジーの出し方に大きな変化が起こっているのがわかる。1971年から72年、73年あたりにかけて、日本の感性のギアが入れ替えられたのではないか。たんに、70年代に入った、というだけの意識の変化が影響しただけなのか、もっと本質的な変貌がポップスの感性の底に起こっていたのか。


 子供時代から青春期に入りつつあった、その頃の自分自身のポップス方面の感性は、どう変わっていっていたのだろうと思い起こしてみる。だいたいのところ、72年からは、解散後2年のビートルズに没入していくことになり、73年には、カーペンターズの『イエスタデイ・ワンス・モア』をリアルタイムで聴き、デビューしたてのクイーンにも嵌っていくことになったはずだった。いちおう幕が下りたビートルズの成果を捉え直し、吸収し直すという作業は、この時期、全世界的に青少年の様々な年代層を通じて行われたのだろうと思う。ちょうどラジカセが普及した頃で、ビートルズの曲を録音したカセットテープを文字どおり擦り切れるまで聴いて、彼らの一呼吸や雑音さえも吸収しようと努めた。バンドを組んだりしなくても、まわりでは誰もがそのように聴き込んでいた。
友人たちの影響でラジオの深夜放送も聴くようになり、〈セイヤング〉、〈パックインミュージック〉、〈オールナイトニッポン〉から始まって、〈走れ!歌謡曲〉、〈歌うヘッドライト〉などまでを毎日のようにはしごするようになる。落合恵子が担当する「ロスト・ラブ」のコーナーなどは楽しみで、恥ずかしい気持ちでどきどきしながら、自分よりだいぶ上の人たちの恋愛話を聴いていたものだった。
しかし、そういうものを聴くのは深夜ひとりでだったし、ビートルズやクイーンにしても、親とはまったく共有できなかった。食事の際や夜の団欒、日曜日などに家族で聴くのは、テレビから流れてくる歌謡曲ばかりだったが、そういうテレビの世界のほうでも、1971年には『スター誕生!』が始まっており、森昌子がグランドチャンピオンになっていた。翌72年には桜田淳子、山口百恵が登場する。
1969年の決定的名作『港町ブルース』で日本レコード大賞最優秀歌唱賞をとった森進一は、71年には『おふくろさん』で二度目の歌唱賞をとり、彼のかすれ声がどこでも響いていた。
五木ひろしもまた、どこでも聞かれた。71年には『よこはま・たそがれ』と『長崎から船に乗って』が発売され、山口洋子作詞・平尾昌晃作曲の作品を五木ひろしが歌うことの成果が、はっきりと出てきていた。


 60年代から70年代にかけての日本レコード大賞の受賞曲を見直すと、非常にわかりやすい断層が露呈しているように感じる。

1965年、美空ひばり『柔』
1966年、橋幸夫『霧氷』
1967年、ジャッキー・吉川とブルーコメッツ『ブルー・シャトウ』
1968年、黛ジュン『天使の誘惑』
1969年、佐良直美『いいじゃないの幸せならば』
1970年、菅原洋一『今日でお別れ』
1971年、尾崎紀世彦『また逢う日まで』
1972年、ちあきなおみ『喝采』
1973年、五木ひろし『夜空』
1974年、森進一『襟裳岬』 
1975年、布施明『シクラメンのかほり』
1976年、都はるみ『北の宿から』
1977年、沢田研二『勝手にしやがれ』
1978年、ピンク・レディー『UFO』 

 尾崎紀世彦とちあきなおみの受賞は、それまでと違う大きな変化が起こったことを表わしていたように感じる。五木ひろしや森進一では、少し時代が戻ったように見えるかもしれないが、五木ひろしの歌は山口洋子+平尾昌晃によるもの、森進一の歌は岡本おさみ+吉田拓郎によるもので、演歌と歌謡曲、さらにはフォークのフュージョンが自然に行われている。布施明の歌は小椋佳によるもの、都はるみの歌は阿久悠+小林亜星によるもので、沢田研二とピンク・レディーに到っては、もうはっきりと時代は変わった印象がある。


個人的には、75年頃から日本の歌謡界を離れはじめていた気がする。この年は、イギリス生まれ、オーストラリア育ちのオリビア・ニュートン=ジョンが、アメリカ移住にともなって『そよ風の誘惑』を出した年だし、カーペンターズは『プリーズ・ミスター・ポストマン』をカバーし、『オンリー・イエスタデー』を出し、イーグルスは『呪われた夜』を出し(『ホテル・カリフォルニア』は76年)、ロッド・スチュアートは税金を軽くすべくイギリスを去り、渡米して、『セイリング』の入っている『アトランティック・クロッシング』を出し、と忙しい年だった。
これらの曲から受ける刺激ももちろんあっただろうが、やはり、どんどん深化していくばかりのビートルズへののめり込みのために、外国のポップスに興味が完全に偏っていったように思える。
74年にスタイリスティックスが出した『愛がすべて』は、75年にも友人たちのあいだで大変なブームが続いており、レコードの貸し借りが絶えなかった。
スティービー・ワンダーが74年に出した『サンシャインYou are the sunshine of my life』もずいぶん聞かれていた。
76年になればアバの爆発的なヒットが来ることになるが、…しかし、こんなふうに数え上げていくときりがない。
個人的にもっとも偏愛するバグルスThe Bugglesの『ラジオスターの悲劇Video Killed The Radio Star』が大ヒットする1979年まで、そしてもちろん、西ドイツのあのジンギスカンDschinghis Khanもデビューした奇跡の1979年まで、延々とだらだら思い出し続けていきたくもなるが、このあたりで止めよう。ここまでお読みになった皆さん自身が、これからは、ひとりひとり、あの頃を思い出し直していく番だ。




2012年4月24日火曜日

浅香社と落合直文



 本駒込の大きく立派な名刹、吉祥寺を訪ねたおり、寺から出た南側の小路を歩いていて、浅香社の旧跡を見つけた。本駒込三丁目あたりだったと思う。格別感慨があったわけでもないが、ここに落合直文が越してきて、あの浅香社を作ったのかと思い、吉祥寺のほうを見ながら、当時のありさまを想像した。
今は寺の壁がめぐり、眺望を遮っているが、昔は壁などなかったかもしれない。寺の多い土地だから、あちこちに寺が見え、墓もそこ此処に見えたかもしれない。


明治二十六年のことだったという。本郷のこの地は、当時は浅嘉町といった。落合直文はここに移ったのを機に、結社・浅香社を立ち上げる。創世期の同志には、実弟の鮎貝槐園、与謝野鉄幹、大町桂月、塩井雨江、内海月杖ら。やがて、久保猪之吉、服部躬治、武島羽衣、尾上柴舟、金子薫園、丸岡桂なども集まってくる。
今でも短歌や俳句では結社というものがあり、これによって創作や考究の励みを得る人も多いだろうが、集団というものはそもそも、集団として存続し続けようとするがための独自の運動体になっていくもので、なにかと煩わしい窮屈さが出てくる。浅香社は、この点でなかなかユニークだった。結社でありながら、主義も綱領も掲げず、機関紙も出さない。同人たちは、短歌改良の思いをともにする程度の緩いつながりで結ばれている程度で、はっきりしない曖昧な集まりだった。これがかえって功を奏し、同人たちは自由に才能を伸ばし、各人の創作活動に向かっていったらしい。
 

 こうした浅香社の雰囲気は、落合直文という人の人柄に負うところが大きい。包容力ある自由人だったという。
同志の与謝野鉄幹の伝えるところによれば、「独自な歌を詠め、古人にも今人にも追随するな。勿論予の歌も眼中に置くな」と指導したらしい。大らかな指導方針に見えるが、短歌においては、これは最も厳しい指導ともいえる。
「独自な歌を詠め」と言われて、はい、そうですか、と独自な歌が詠めるならば、それは天才というものだろう。「予の歌も眼中に置くな」はまだしも、「古人にも今人にも追随するな」というのは殆ど不可能に等しい。橘曙覧の歌に追随しまいとすれば、藤原良経に傾くかもしれない。万葉にも古今にも寄らないというのは難しく、ともすれば新古今、あるいは、もっと真似のしやすい千載和歌集に傾くかもしれない。人麻呂から距離を取るのは意外に容易でも、山部赤人、山上憶良などには、いつの間にか近づいてしまう。気にしていないようでも、ひょんなところで西行が待っている。ふいに実朝が身近に迫ってもくる。家持の近代性も、いつも、ひしひしと泌みる。
どうしたらいいか、どう進んだらいいか、そんなことは、落合直文にもわからなかったのではないか。「独自な歌を詠め、古人にも今人にも追随するな。勿論予の歌も眼中に置くな」とは、誰よりも、自分にこそ向けて言った言葉だっただろう。自分のこれまでの歌、自分の中にしつこく巣食っている和歌の古色蒼然たる部分、それを「眼中に置くな」と自らに叱咤していたに違いない。
仙台藩に生れ、東京帝大古典講習科に学んだこの国文学者は、森鴎外らのS.S.S(新声社)の同人にもなり、訳詩を発表したり、「日本文学全集」を編纂刊行したり、長詩「孝女白菊の歌」創作などをしてきたが、よき教養人であり過ぎたというべきか、激しい改革運動を展開するだけの蛮勇は持ちあわせていなかった。『新体詩抄』以来、短歌否定論や短歌改良論が盛んに議論されたが、その中にあっての彼は、旧派にも新派にも理解を示すような人物であり、折衷派と呼ばれることになる。「私は新派であるか、旧派であるかといふに、やや新派に左袒して居るものです、また旧派もすてない、否旧派より出でたる新派にあらざれば、到底、善美なる歌は望むべからざるものと思ふ」と語り、「詞は古きにとりて調は新しきにとる」行き方とともに「調はふるきにとりて詞は新しきにとる」行き方をも認めるとなれば、確かに、どっちつかずと見られても仕方がないところがあっただろう。


しかし、国学の伝統を深く身につけた人として、旧派の表現技巧・措辞にも通じ、伝統和歌の美意識の味わい方を知っていた人にとって、新しい短歌がどうあるべきものと映っていたかと想像すると、落合直文の態度はそれなりに納得がいく。新しい歌が生れるべきであり、改革はなされるべきであったが、しかし、新たな歌の姿はまったく見えていない時期に彼はいたのである。そういう時期に、「旧派もすてない、否旧派より出でたる新派にあらざれば、到底、善美なる歌は望むべからざるものと思ふ」との見解を持つのは、まっとうな、正確な選択であったというべきだろう。改革や新しさが要請されているとはいえ、それが歌の魅力や風格を破壊しては元も子もない。
魅力というものは、しかし、恐ろしい。なにかを魅力と感じうる素地を育んだ人にしか魅力とはなり得ないし、彼にとっては、その魅力の素地から外れる新たなものは、先ずは魅力でないものとして到来するだろう。非常に困難な、苦しい美意識の多様な闘争が起こる。そういう闘争の大きな一局を落合直文は担い、その現実的な場所が浅香社なのだった。


残された実作は、古い美意識に心の髄まで浸されたよき教養人が、過去から伸びて来る無数の手にがんじがらめにされ、引き戻されつつ、それでも新たなものに首を向けようとする必死の爪あとにも見える。もし時間や時代というものが進まないのならば、その中にいくらも憩っていたいような景が表現されており、それなりの充実があり、風通しのよい古典的詩歌精神の爽やかさがあるが、逆の見方をすれば、どのように歌ってはいけないか、どこを除き、どこを変更すればいいのか、よくわかる実例が並んでいるともいえる。

緋縅の鎧をつけて太刀はきて見ばやとぞおもふ山桜花
ひとつもて君をいははむひとつもて親をいははむふたもとある松
玉すだれゆらぐともなき春風の行方を見せて舞ふ胡蝶かな
萩寺の萩おもしろし露の身のおくつきどころ此処と定めむ
小瓶をば机の上に載せたれどまだまだ長し白藤の花
をとめらが泳ぎしあとの遠浅に浮環のごとき月浮び出でぬ
父君よ今朝はいかにと手をつきて問ふ子を見れば死なれざりけり
さわさわと我が釣り上げし小鱸(をすずき)の白きあぎとに秋の風ふく
近江の海夕霧ふかしかりがねの聞ゆるかたや堅田なるらむ
渡殿をかよふ更衣のきぬすそに雪とみだれてちるさくらかな
原町にめしひふたりが杖とめて秋のゆふべを何かたるらむ
町中の火の見やぐらに人ひとり火を見て立てり冬の夜の月
馬屋(まや)のうちに馬のもの食ふその音も幽かに聞ゆ夜や更けぬらむ
父と母と何れがよきと子に問へば父よと云ひて母をかへりみぬ
桜見に明日は連れてと契りおきて子はいねたるを雨降り出でぬ
木枯よ汝が行方の静けさのおもかげ夢みいざこの夜寝む

 風向きががらりと変わっていく瞬間。潮の流れが反転する場所。これらはみな、そういう場に居合わせ、自分の作歌の現場で転回点というものを引き受けた人の歌である。「独自な歌を詠め、古人にも今人にも追随するな。勿論予の歌も眼中に置くな」というのは、思えば、詩歌永遠のまことに純粋な要請であり、誰もが思いながらも、これほど純粋にはっきりとは、なかなか容易には発言できない。日本近代の詩歌の精神を鮮明に示した人として、落合直文は、やはり生半な歌人ではなかったというべきだろう。

 文学活動のかたわら、一高、早稲田、跡見、東京外語学校などで教えたが、特に國學院には、四十二歳の若さで亡くなるまで在職し続けていたという。



2012年4月6日金曜日

『絵本合法衢』と鶴屋南北




 久しぶりに見る鶴屋南北の通し狂言だったので、国立劇場の四月公演『絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)』*は楽しみだった。初日三日の席が取れていたので、春の爆弾低気圧で荒れる隼町で昼から四時間ばかりを過ごした。もちろん、南北にはうってつけの天候である。入場の際、内堀通りに面した植え込みに低い桜が咲き出し、ピンクの早桜が満開なのを見た。夕方には暴風雨で吹き飛ばされているだろうと思ったが、こういうのも南北好みではある。


 この狂言は南北五十五歳の文化七年三月に江戸中村座で初演され、代表的傑作のひとつとされる。敵役の名人といわれた五代目松本幸四郎に、時代物の悪人と世話物の悪人の二役を同一狂言の中で演じさせようとの趣向が南北にはあった。好評を博し、同年五月には幸四郎が再演、同じ五月、市村座では七代目市川団十郎が大守俊行まで替わる三役を演じることで対抗し、文化七年の江戸を湧かせた。
 明治に入ってからは、二十年五月に東京春木座で市川九蔵(のちの七代目団蔵)が演じた。大正十五年の帝国劇場上演では、二代目市川左団次が演じ、皐月とお松を六代目尾上梅幸が演じたが、これについては小山内薫が「南北のエスプリをしっかり掴んでいる役者は誠に少い。私の見るところでは僅に左団次と梅幸だけがそれを掴んでいた。()黙阿弥になりはしないかと懸念されていた梅幸のうんざりお松が、立派に南北のエスプリを掴んでいたのには驚いた。四条河原から妙覚寺裏の殺しまで、一言一句、一挙一動、一分の隙もなく、南北であり初代豊国であった」と書き、評価している。
 昭和四十年十月の芸術座上演では、五代目以来の八代目松本幸四郎の二役、八代目市川中車による高橋兄弟二役、芝鶴の柵とお松二役、又五郎の林平とお道二役、与兵衛には六代目市川染五郎(現九代目松本幸四郎)という配役で、菊田一夫に招かれて松竹を去り東宝に移籍した後の、幸四郎一門にとっての傑作上演となった。


鶴屋南北の劇では、誰もが知るように、凄惨な殺し場の連続が楽しいし、縛る、いたぶる、拘束する、虐める、といった場面が楽しい。他の作者たちの歌舞伎狂言にも共通するが、意外な人物たち同士が実は血縁関係にあり、それによって筋書きが見事にご都合主義的に歪んでいくといういい加減さも、これまた楽しい。
しかし、なんといっても南北においては、これっぽっちの反省もしない徹底した悪役の活躍が楽しい。良心や善意、思いやりなどというものを一切持ちあわせない南北的悪役は、しばしば、金儲けのためとか、出世のためなどというケチな目的さえ超えて、ただ悪を研ぎ澄ますだけのために邁進していくかのようだ。南北の真骨頂である。悪人の大活躍する劇は楽しい。劇や物語というものと悪人との関係は、人道主義や道徳や民主主義社会などというものよりもはるか昔に深い絆を結びあった仲で、近現代の見え透いたうすっぺらな倫理などでは太刀打ちできない。南北はこのことを骨の髄から知っていた。世間の人間模様を写す写実精神や、庶民の良心、喜怒哀楽、社会正義、花鳥風月などを至上のなにごとかと奉じて、それらによろしく言語や物語を奉仕させるようなことは断じてせず、ご都合主義、奇想天外、どんでん返しのとんでもない物語展開のためにこそ、それらを適宜使いこなす、あるいはいい加減に使いまわして最後に捨てる、こんな胸のすくような傍若無人の我がままぶりが披露されるのが、大南北の舞台というものである。ここにあるのは、文学でもなく、文化でもない。ただ、大車輪で回転し続ける劇があり、物語がある。劇も物語も、本来、人間性をつねに串刺しにし、切り刻み、これでもかといたぶり、嘘混じりかいっそうの未来的巨悪への誘導として世間で拵えられる希望だの安全だの喜びだのといった近代の玩具の外へと、遠く遠く逸脱し続ける性質のものである。南北とて完璧ではないながら、しかし、糞食らえ、人間、社会、なにするものぞ、という見得が全編を覆っている。舞台であれ、本であれ、南北に触れ続けること、それがかなわずとも、時々は南北のほうを見返ってみること、そうして、ちまちました近現代社会のおままごと染みたお作法を脳髄からクリーニングするのは、たぶん、物語やフィクション好きには義務というべきものであり、幸運でも恩寵でもある。


今回の四月の国立劇場での『絵本合法衢』上演(歌舞伎は上演のたびに台本に手が加えられるので、二〇一二年四月国立劇場版とでも呼ぶべきだろう)でいちばん面白かったのは、大詰の最後の第二場、狂言の終わりの瞬間だった。高橋弥十郎とその妻皐月が、兄と弟のかたきである左枝大学之助を討ち取る。とどめもさして、めでたく仇討ちはなったかと見え、このまま幕が引かれて劇も終わるかと見えた時、ふいに、殺されたはずの左枝大学之助が立ち上がり、客席に向いて坐り直し、合法こと高橋弥十郎とその妻皐月も、それぞれ、左枝大学之助の両脇に坐り直したところで、左枝大学之助が一言、「先ず今日はこれ切り」。三名、客席に向かって頭を下げ、ここで幕となった。
この終わり方にはいろいろな意味合いや面白味がある。仇討ちが済んだところで、殺された側がくるりと立ち上がり、殺された側とともに客に向かって終劇の挨拶をするという趣向は、そこまで展開され演じられてきたものがまさに劇であり、劇に過ぎず、フィクションでしかなかったということをまざまざと見せつけるもので、見ている客の側としては、すべてが夢であったかのような感覚にはっきりと落とし込まれる。
幕を引くこともなく、舞台にいるままの役者たちから劇の終わりが宣言されることによって、劇中人物と生身の役者との区別がつかなくなってしまうのも面白い。劇の終わりの挨拶をしているのが、つい今しがたまで、劇中人物として物語を生きてきた左枝大学之助なのか、それとも演じてきた片岡仁左衛門なのか、高橋弥十郎なのか市川左團次なのか、弥十郎の妻なのか中村時蔵なのか、わからなくなる。これは、しばしの間、不注意から観客の意識に起こった混乱でうっかりわからなくなってしまう、というようなものではない。役者の固有性が強く押し立てられることで成立している歌舞伎においては、左枝大学之助は片岡仁左衛門が演じていて、片岡仁左衛門=左枝大学之助であって、舞台上でいま悪行を行っているのは左枝大学之助だが片岡仁左衛門であって…という、ふたりの人物を同一身体に同時に捉え続ける操作が、他の演劇や映画以上に観客に求められ続ける。物語の進行過程においては、観客は、どちらかといえば、作中人物の左枝大学之助として眼前の身体を捉えるものの、しかし、「ここの場所での仁左衛門の演技はいい…」などと随時思うわけで、役者の同時存在を忘れる瞬間はない。そうした数時間を経て後、突然、殺された作中人物が起き直り、物語中の人物にふさわしいセリフではなく、劇の終わりを告げるという物語の枠組み自体に関わるセリフを言うのだから、作中人物が担ってきてその人物なりの意味の沁みている時間と、役者が担ってきて役者なりの意味の沁みている時間との混乱が、ここでは意図的に企まれていると考えねばならない。しかも、セリフが「先ず今日はこれ切り」というのだから、役者が本日の興行の終わりを告げたともとれるし、作中人物の左枝大学之助が、今日のところはここまで見せるが、まだまだ負けたわけではないぞ、と告げているともとれる。昭和四十二年三月国立劇場上演台本の『桜姫東文章』**などでは、狂言の最後、とってつけたように口上役が登場し、「東西。春の夜もおいおいに更けますれば、先ず今日はこれ切り」と言い、それにあわせて鳴物があらたまり狂言の終わりとなっているが、他の作品のこのような終幕を思い出せば、仁左衛門がここで、大学之助でも仁左衛門でもない口上役を演じているとも考えられる。
そもそも、鶴屋南北の狂言では、悪人はやすやすとは滅びない。彼らが滅びるまで、息の根を絶たれるまでを、南北は描かない。最後のぎりぎりのところで、決戦が先送りされるかたちで幕となったり、止めをさす直前で幕となったり、不利に追い込まれながらも逃げおおせて、いずれ再び――、となることもある。悪というものの地上での不滅を象徴してでもいるのか、それとも、「悪源太義平」などという時の古語、気性が激しく、強く、勇猛である性質を表わすプラスの意味での「悪」に繋がるエネルギーを象徴しようとしてでもいるのか、これが南北における悪人の特色で、勧善懲悪の紋切り型などどこ吹く風、と秩序維持に徹する体制側の精神をひょいひょい裏切り続けていくところが痛快無比である。そんな南北の狂言だからこそ、『絵本合法衢』の終わりにおける「先ず今日はこれ切り」によって、やはり南北的悪人は逃げのびるということか、お次はべつの南北作品にて乞うご期待ということか、と楽しく空想させられることになる。
今回の『絵本合法衢』の上演では、舞台上の片岡仁左衛門の身体に、役者本人と劇中人物の左枝大学之助とが重ねあわされているだけではない。仁左衛門は、一人二役で立場の太平次なる左枝大学之助配下の市井の悪人も演じているから、仁左衛門の身体には都合三人分の人物が重ねあわされていることになる。これは南北に限ったことではないが、一体の身体に複数の人格やアイデンティティーが重なってきて、これらが入れ替わり立ち替わり表に現れ出て来るというのは、歌舞伎の重要な構造の一部となっている。近現代社会が個人の身体に強要してくる一人格、一アイデンティティーなど、歌舞伎は根本から受け入れてはいない。近現代社会が畏怖するような多重人格を軽々と受け入れて成立する舞台空間が歌舞伎にはあり、逆にいえば、近現代社会をどのように根本から破壊しうるかについては、歌舞伎の適切な分析と理解とが大いに寄与しうるところということになろう。


手もとにある東京創元社版『名作歌舞伎全集』第二十二巻(一九七二年発行)所収の『絵本合法衢』昭和四十年九月芸術座上演台本(大谷図書館蔵)***では、終わりはこうなっている。

合法  サテこそな。イザ大学之助、尋常に勝負しろエヽ。
大学  やあ、勝負なぞとは何のたわ言。香炉を盗まれ、
あまつさえ菅家の一軸失う罪人、屋敷へ引っ立て
糾明するわ。それ。
ト供大勢、かゝる。
合法  やあ、兄瀬左衛門を打って一軸うばいし大学。
大学  瀬左衛門を打ちしは小島林平。
この上主に刃向かうのか。
合法  サ、それは、
大学  証拠があるのか、
合法  オヽ、その証拠こそ、
ト立つを、からみ、
搦み  それを。
トかゝるを立ち廻って、からみの切りし自在より
出でし竹槍をもちて、ツカツカと大学之助のそばへ行き、
合法  この手槍。
大学  なんと。
合法  瀬左衛門、横死のみぎりおちたる手槍、紋はたしかに向う梅、
大学  やあ。
合法  こりゃどなたの御紋でござりますかな。
大学  ぬ、もうこの上は、
ト両人、派手なる鳴物にて、立ち廻り、
トヾ、閻魔の首にからんで、
絵面にきまりし所にて、

よろしく幕

 ずいぶんと違っているが、こちらのほうが南北劇のオリジナルな幕切れの風合いを伝えている。大学之助は切られていないし、これからいよいよ決戦、というところで幕切れとするのなど、他の南北作品に共通している。悪人が捕まったり、殺されたり、仇討が成就したりというところまで進めず、そのギリギリ手前で劇を終える。この、突き詰めずにとりあえず終える、「先ず今日はこれ切り」という終わり方をしておくスタイルは、鶴屋南北作品における刻印というべき、ゾッとするほど魅力的な美学の露呈した部分であり、これを以て各作品を〆る所作は、そのまま、南北の思想そのものであるといっても過言ではない。
大学之助の「やあ、勝負なぞとは何のたわ言」というセリフにも、悪人の面目躍如たるものがある。正々堂々とか、偏りのない判定とか、そんな小うるさい考えがついてまわる「勝負」なるものなど、悪人はしない。彼らはまったく別のパラダイムにおり、社会秩序や倫理規範などに馴染む小市民とは別個の運動体なのである。
 

 終わり方といえば、『東海道四谷怪談』****の終わり方ほど印象深く、効果的、夢幻と緊張の極みに達したものはない。

二人  捕った。
ト伊右衛門に打ってかゝる。
抜き討ちに二人を切って捨て、
伊右  その手は喰わぬ。おれもそうとは、
平内  ソリャ。
捕手  捕った捕った。動くな。
ト踏ん込むを、切り捨て切り捨て、
見事に残らず切り立てる。
組み子の後より赤合羽、菅笠、
仲間体(ちゅうげんてい)の者が
交り門口に窺っている。伊右衛門、身拵えをし、
伊右  死霊の祟りと人殺し、どうで遁れぬ天の網、しかし一旦遁れるだけは、
ト門口へ出かけるところを、表より雪を礫に打つ。
心得て白刃を抜く。合羽の男、脱ぎ捨てる。
佐藤与茂七にて、両人ちょっと立ち廻って、
キッと見得。
与茂  民谷伊右衛門、こゝ動くな。
伊右  ヤヽ、わりゃ与茂七、なんで身共を、
与茂  女房お袖が義理ある姉、お岩が敵の其方ゆえ、この与茂七が助太刀して、
伊右  いらざる事を。そこ退け佐藤。
与茂  民谷は身共が、
ト立ち廻る。これより薄ドロ、陰火燃えて、
伊右衛門を苦しめ、立ち廻りのうち鼠数多現われて、
伊右衛門の白刃にまといつくゆえ、思わず白刃を取り落とすを、
すかさず与茂七、伊右衛門に切りつけ、立ち廻り。
これにて成仏得脱の、
伊右  おのれ、与茂七。
ト立ちかゝる。ドロドロ、心火と共に鼠むらがり出で、
伊右衛門を苦しむ。与茂七、付け入ってキッと見得。
ドロドロ烈しく、雪しきりに降る。
この見得にて、よろしく。

              幕


 ここでも、日本文芸至上最大級の有名な悪人、民谷伊右衛門は、討たれぬまま、劇は終わる。窮地に追い詰められ、もう逃げおおせることはできまいと思われるものの、それでも、鼠や人魂に苦しめられながらも、与茂七になおも立ち向かおうとする。善人と悪人の力の拮抗したまま、歌舞伎絵に恰好の見得となり、そこへ、「雪しきりに降る」。
 なんどか見た舞台で、この最後の場面にいったい何が起こっているのか、あの異様な魅力はなにか、見定めよう、見定めようとして、舞台の上に目を凝らし続けてきたものだ。もちろん、三島由紀夫や渋澤龍彦に愛されたあの天知茂の起用によって、歌舞伎の舞台以上の色悪をスクリーンに出現させた中川信夫監督作品『東海道四谷怪談』(1959)をも含めて。幾度か舞台を見、映画を見た後では、台本だけを読みながら、自分の舞台を思い描き、自分なりの演出もそこで行い続けてきたものだった。
 この国に生まれ落ちて以来、ひしひしと肌に感じてきた、日本というものの奇妙に曖昧な、酷薄な、ついに信じることのできない空気、人心。鶴屋南北はそこのところをギュッと鷲掴みにしていて、そこから物語とドラマを発動させている。その粋が『東海道四谷怪談』であることは論を待たないが、南北が文政八年七月の江戸中村座のために書き下ろしたこの作品の余韻の中で、その後の日本のフィクションと文芸は、かろうじて、雨露を凌いできたのではなかったかとも思う。鶴屋南北の外へなど、おそらく、我々は一歩たりとも出たことはなかったのである。




*国立劇場開場四十五周年記念2012年四月歌舞伎公演『通し狂言 絵本合法衢』四幕十二場。四世鶴屋南北作、奈河彰輔監修、国立劇場文芸課補綴。配役は、左枝大学之助+立場の太平次に片岡仁左衛門、うんざりお松+弥十郎妻皐月に中村時蔵、高橋瀬左衛門+高橋弥十郎に市川左団次、田代屋娘お亀に片岡孝太郎、田代屋与兵衛に片岡愛之助、松浦玄蕃に市川男女蔵、お米に中村梅枝、佐五右衛門に片岡市蔵、孫七に市川高麗蔵、田代屋後家おりよに坂東秀調、太平次女房お道に片岡秀太郎など。
**東京創元社『名作歌舞伎全集』第9巻(1969)所収の郡司正勝校訂版による。国会図書館写本と『大南北全集』による補修改訂版。
***落合清彦校訂版。
****東京創元社『名作歌舞伎全集』第9巻(1969)所収の郡司正勝校訂版による。演劇博物館所蔵台本を使用し、『大南北全集』と岩波文庫版を参照したもの。