2010年8月26日木曜日
春の袖
いまでもお正月のことを「新春」などと呼びますが、陰暦を用いていた江戸時代の終わりまでは、年が明けると、それがそのまま、春を迎えるということでした。ずいぶん気のはやいことを、などと思わされますが、現在の一月の終わり頃が、だいたいは、陰暦の元日にあたっています。寒さの底に、たしかに、春の清冽さが感じられてくる頃で、春の〝走り〟の、いちばん新鮮なところといえるかもしれません。
天保三年の正月、まさに、そうした新春のめでたさと、新鮮な浮き立った雰囲気を当て込んで売り出されたのが、為永春水の『春色梅兒與美(梅暦)』でした。読みはじめた読者たちは、すぐにヒロインの、こんな着物姿に出会うことになったはずです。
「上田太織(うえだふとり)の鼠の棒縞(ぼうじま)、黒の小柳に紫の、やままゆじまの縮緬(ちりめん)を鯨帯(くじらおび)とし、下着はお納戸(なんど)の中型(ちゅうがた)縮(ちり)めん、おこそ頭巾(ずきん)を手に持(もち)て、みだれし鬢(びん)の嶋田髷(しまだわげ)、素顔自慢か寝起きの儘(まま)か、つくろはねども美しき、花の笑顔に愁(うれい)の目元、(……)」(日本古典文学大系64、岩波書店刊)
当時の流行の装いをした芸者の米八が、かつて馴染んだ主人公、色男の代名詞とまでいわれた丹次郎のもとを訪ねる名場面です。江戸の読者ならずとも、思わず引き込まれてしまうような周到な書き込みで、このまま着付けてみれば、たちまち米八の風姿を再現できそう。作中の季節はといえば、じつは初冬なのですが、天保三年の恋愛物語好きの読者たちは、まさにこの年、米八のこの着物姿とともに新春を迎えたのでした。米八が鯨帯に用いた「やままゆじまの縮緬(ちりめん)」の紫は、年明けの初めての花のように、早春の江戸の読者たちの心に、印象つよく咲き出たのではないでしょうか。
衣類の色あざやかな紫、ということでは、日本の古典のなかに他にも例があります。平安時代、百人一首でも有名な赤染衛門が、春の訪れを告げる、こんな紫の歌を作っています。
紫の袖をつらねて来たるかな春立つことはこれぞうれしき
陰暦正月のはじめ、摂関家での饗宴に、紫色の袖をつらねて大臣以下の公卿たちが集まってきている光景です。春になってうれしいのは、ほんとうにこれね、一堂に会した貴顕の方々の紫の袖が、なんとまあ、春にふさわしく華やいで。赤染衛門の、こんな浮き立つような心持ちが、そのまま伝わってくるようではありませんか。
この時代には、上達部(かんだちめ)と呼ばれていた大臣や大納言、中納言、参議、その他の三位以上の公卿たちは、、盛儀の際、紫色の袍(ほう)を着用することになっていました。この歌は、藤原道長の妻倫子(りんし)に仕えていた赤染衛門が、倫子七十の賀の屏風に描かれた饗宴図を見て詠んだもので、現実の光景を目のあたりにして作られたわけではありません。けれども、年が明けてのはじめての寿ぎの饗宴に、紫色の袍の彩りがずらっと居並ぶさまは、梅もまだ咲きそろわぬ時期、まことに年初の花ともいうべき光景だったのでしょう。いつの季節にも、その季節ごとの華やぎをつよく求めた平安の人々には、新春をひらく花として共有されていたイメージだったはずです。
春を告げる袖、しかも、心の澄んだ喜びを率直に伝えてきてくれるような歌といえば、やはり思い出されるのが、『古今集』の春歌のふたつ目を飾る、紀貫之の歌。
袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ
袖を濡らすのもいとわず、夏、手で掬って、冷たさを楽しんだ山の清水。冬に入って凍ってしまっていたそれを、立春の今日、風が解かしていることだろうよ、といった歌意ですが、藤原俊成が『古来風躰抄(こらいふうていしょう)』で「心も詞(ことば)もめでたく聞ゆる歌なり」と評したのを思い出すまでもなく、まことに優艶にして流麗、奇跡的なまでの名歌です。
夏から冬、そして新しい春を迎えるまでの季節の一巡のさまが、水が凍って、ふたたび解けるまでの一連のイメージで、みごとに切れ目なしに表現されています。「袖」、つまり、着物に関わりのある掛詞(「掬び」と「結び」、「春」と「張る」、「立つ」と「裁つ」)や、縁語(「結ぶ」、「張る」、「裁つ」、「解く」)を駆使することで、しっかりと歌の生地が織り上げられているのにも、感嘆させられるばかりです。
ひとたび立春を迎えてしまえば、春の進みははやくなるばかり。「水の辺に梅の花咲けるを詠める」という詞書のある伊勢の歌の時期も、もう間近です。
春ごとに流るる川を花と見て折られぬ水に袖や濡れなん
川に映る梅の花枝を折りとろうとして濡らす袖の彩りも、つぶさに思い描こうとしてみれば、やはり、ただならぬ繊細な美しさを湛えて、いまに蘇ってくるようです。
◆この文章は、『美しいキモノ』二〇〇六年春号(アシェット婦人画報社)にも、「典雅の心を歌に詠む 日本文学ときもの【短歌編】」として掲載された。
◆駿河昌樹文葉「トロワテ」20号(2006年3月)にも掲載された。
2010年8月25日水曜日
吉田拓郎のタラッとさ加減
応答する反論はどれも、もとの論が何についてのものか
という、一緒にいる存在にすでに「共有」されている理解
に、もっとも近いところから直接に起こる。
(ハイデガー『存在と時間』、細谷貞雄訳)
昭和四十九年、森進一が第十六回レコード大賞を受賞して『襟裳岬』を歌った際、後ろには作曲した吉田拓郎と作詞の岡本いさみが立っていた。喜びのためだろうが森はいささか放心気味で、ときに緊張気味にさえ見え、岡本も居心地の悪さや恥ずかしさに耐えて、それなりに威儀を正してちゃんと立っている。 しかし、腹のあたりで少し体を捻じくらせたようにして立っている吉田拓郎の姿はどうだろう。ジーパンにジージャン、どこに出ようとけっして体をピンとさせず、ダラッというか、タラッというか、場に合わせるということをしない若い男が、逆に、誰よりもしっかり其処にいるというふうに見える。いま風にいえば、KY(空気読メナイ)とでもいう言葉を持ち出せばいいところだろうか。KYこそ人間が人間たる最低条件でしょう、といった雰囲気。
久しぶりにこの映像を見ながら、いわゆるバブル期以降から現在に至るまでの日本が失った最たるものはこれだったのかな、と感じた。七〇年代まで、当然のようにどこにもいたこんな姿、その場の雰囲気にはとにかく合わせないし、すぐにフケるし(いなくなること、ずらかることをこう呼んでいたものだ)、うるさく声を張り上げたりはせずともNOを表明し続けるといった連中の姿(高校の生徒会などはどんな場合であれ反対の嵐で、なにひとつ決まらなかったのを思い出す)。八〇年代が進むにつれてこれはだんだんと消えていき、平成に入ると、マニュアルを見よう見真似してでも流行や風潮に先ずは従っておくという柔らかなヒットラーユーゲント隆盛の時代となった気がするが、一九五九年生まれのぼくには、森進一の背後にタラッと立つ吉田拓郎の姿は懐かしく見え、頼もしく見えた。ぼくにとって小父さんたちや兄ちゃんたち、お兄さんたちに当たるこういう上の世代のタラッとさ加減に、思えば、ぼくはずいぶんと支えられてきたし、彼らのこんな雰囲気があったからこそ、それを取り込んだり、それに反発したりしながら振舞い方を自然に作り上げてきたのだろうと感じる。八〇年代に次第にこうしたタラッと系が消えていくにつれ、たぶん、良かれ悪しかれ行動規範のように自分の中で機能していたものを、ぼくは失っていくように感じていた。その後の日本社会は、奇妙というか、おそろしいまでにストレートに場の雰囲気にあわせる人間を良しとするコードに領されるようになり、ぼくには気持の悪い、居心地のすこぶる悪いものとなった。
世代論は誰でも知っているように粗雑で嘘っぱちだし、ひとりの人間が自分の世代を代表して何ごとか語れると思い込むのも愚かしい限りだが、ぼくら五〇年代最後生まれの日本版“失われた世代”、ないしは沈黙の世代は、他の世代にはない重荷をずいぶん背負わされてきた、と言ってみたい時が多い。ぼくは愚かなので、自分の世代を代弁してひとしきり考え込んだり語ったりするのはけっこう好きなのである。
インチキが多分に含まれるのを承知で概括してみれば(くどくなるのを承知で言い添えておくが、インチキというのは大好きで、もうワクワクしちゃうのである)、ぼくらの親たちや先生たちにあたる三〇年代生まれ世代は、現在の七〇歳代半ばあたりの人々で、この世代というのは品行方正志向がつよく、自分たちを新しい人間と思いたい一方で人間関係においては古い秩序の信奉者であるし、倫理や思考様式は小市民的かつ保守的で、子供や学生が反抗的であるのを根本的に認めない。高度成長期の真ん中で生きてきて、同じサイクルや方法論を継続していけば世の中は回っていくという信仰が抜きがたい。もっとも、終戦時に十代はじめだったため、根本の世界観には案外融通のきくところもあるので、いま目の前にある現実を信じ込んでいるわけではない。案外と気弱なところもある。
いっぽう、ぼくの叔父たちや兄たち、近所のお兄ちゃんたちや先輩たちの中で目立つのが四〇年代生まれ世代、なかでも全共闘世代と団塊の世代で、これはぼくから見れば、とにかく親や先生たちの三〇年代生まれ世代やそれ以前の世代の価値観や生活感とズレている人たちで、前の世代にたいしてけっこう露骨な反抗もするし、思いきった無視もクサシもする。ぼくの親類には、全共闘世代も団塊の世代もいたので、幼年時代からぼくはさんざんそういう光景に接してきた。子供ながらに、これらの世代の異議申し立てや柔らかさ(それはもちろん狡さでもある)には助けられたし、生活環境を楽にしてくれるところのある態度の体現者だとも思ってきた。
ぼくら五〇年代最後生まれ世代の場合は、三〇年代生まれ世代を親や先生に持つ手前、表面的には秩序尊重、品行方正と見せる必要があり(そうしないと昔は殴られた)、四〇年代生まれ世代を先輩や兄ちゃんたちとして持ったがために、内面的には反抗や逸脱を当然のこととして成長していくようになった、――こんなところが世代の基本的な性格構成につながったのではないかとよく思う。表面的には既成秩序を尊重し維持するように見えるので、四〇年代生まれ世代から見れば苛立たしく、嘘らしく、保守的にも没個性的にも見えるようだが、内面では眼前の秩序をほぼ百パーセント否定しており、これっぽっちの尊重もしていない。嫌いなもの、尊重しないものを平然と維持し、採用し、使用し続けられるところが、四〇年代生まれ世代にはまったく理解できないらしい。(例えばぼくは、職場で自分がもっとも嫌悪するスーツやネクタイをよく利用してきたが、嫌いだからこそ自分が身につけて、それを世の中に見せつけるという心理がここには働いている。これはどうやら相当にひねくれていると見えるらしく、なかなか理解されない。服装にかぎらず、ぼくが外面的にも内面的にも――内面などもちろん外面でしかない!――身のまわりに置いているものは、ほぼどれも嫌悪するものばかりである。このひねくれ具合、ねじくれ具合というのは、歴史的文化的にぼくらの世代の中にのみ畳みこまれた襞のようなものと言えるのではないか)。
四〇年代生まれ世代による、準備不足もいいところの大小さまざまの革命の試みがことごとく失敗してきたのを見ているので、完全に機が熟するまでは右左含めての古典的網羅的な見識を吸収するのに努めつつ、あくまで保守派の皮をつねに被り、内部ではしかし、すべてに飽き飽きしていて、すべてを覆す準備を進めている。――なんだか『危険な関係』を書いたラクロの精神のようだが、こんな部分が五〇年代最後生まれ世代にはあるように感じる。高度成長以前からの日本を見てきているので、日本が先進国に成り上がっていくカラクリのインチキさも体で掴んできており、現代日本の生活様式だけによって生活観や世界観を拘束されるということがない。いっぽう、幼時から高度成長の波の最先端に乗ってサーフィンさせられてきて、昨今の環境問題や金融危機による資本主義の黄昏にまで付き合いが続いてきているので、第二次大戦後の恩寵的欺瞞的平和と物質的繁栄のAからZまで、ほぼ見尽くしてきている。つまりは、選択肢のうちのひとつが五〇年代以降の日本において展開されたにすぎないものとして現代日本史を見ており、この歴史的事実をべつに重要だとも思わないし、もはや見飽きた風景に過ぎないとの思いが強いがために、これまでの時代を残そうとなど露ほども思っていない…… どうも、こんなところが多分にあるように思えてならない。
大げさなことも言いたくないし(本当はそういうのは大好き)、概括的なことばかり言い続ける気もないが(本当は幾らでもある)、社会や生活様式や街の変質こそを常態として受けとめてきたぼくらの世代の多くは、いま目の前にある日本社会をそのまま維持していきたいなどとは、これっぽっちも思っていないのではないだろうか。ある物については現在のかたちがいいと思うが、別のある物は五〇年代のかたちのほうがいいと思ったり、他のある物は八〇年代はじめあたりのかたちがよかったと思ったりする。こんな見方をすべてに対して採る五〇年代最後生まれ世代は、おそらく社会のあらゆる面をなるがままに放っていくだろうけれども、仮に改革に本気で着手せざるを得なくなった場合には、ずいぶんと選択基準のまちまちなゴッタ煮的社会構成を行う可能性があるかもしれない。とにかく、あれでもいいし、これでもいい、これがダメなら、またあれにかえてもいい、というのがこの世代の根本精神なのである。それはハード面だけのことではなく、政治制度から価値観、倫理に至るまで同じ。つい昨日まで続いてきたもの、培われてきたものをあっさりと立ち切って、まったく別の社会や国家を平然と打ち立てる、かと思うと、またすぐに元に戻してみたりするのではないかという気がする。いま現在、あたかも主流のようになって生起している社会や文化の様態をまったく認めておらず、面白いとも価値があるとも思っておらず、先行世代や後に続く世代の価値観や感性をまったく認めてもおらず興味も実はまったくないという点では最右翼の世代なので、いずれそう遠くないうちに、歴史に残る文化断絶を目に見えるかたちでも惹き起こすかもしれない。事実、ぼく自身、憲法改正は当然のこと、国名を替えたり、政治制度を完全に変えたりという発想をごく当然のものとして持っている(これは右傾化云々とは関係がない。天皇制そのものの排除のために憲法改正が必要だというまでのことである。改正のポイントがまるで違う)。選択・変更がいつでも可能なものとしての生活上のノウハウの厖大な蓄積は日本列島居住民にとって重要だと思うが、社会を一定規範に嵌め続けるものとしての文化の伝承などどうでもいいし(ローマ人に対するフランク族、あるいはノルマン人のようであること)、合理的かつ理性的な国家実験を早くやりたくてうずうずしている。左翼でも右翼でもなく、日本ジャコバン派なのだといつも自称してきたが、ようするにこの六〇年ほど日本を拘束してきた偏見(それを未だに文化だとか呼ぶ戯けた人々がいる)を、そろそろ本気で丸ごと捨てる方向に行きたいものだと思っているわけだ。この六〇年ぐらいの間に起こったこと、作られたものは、どれもあっさりと放棄され、破壊されてよい。人類はそういうものでしょ、この時代だけ歴史のこの基本性質を逃れるというわけにはいかないし、これから当然のように戦争も大災害もまた起こるし、引き続く大量死の時代も戻ってくるでしょ、と、ヨーロッパ保守主義から学んだ口ぶりを使ってたしなめておきたい気もする。
せっかく吉田拓郎のタラっとさ加減の話だけをしようと思って書き始めたのに、「たしなめる」などという身振りにまで至ってしまうというのは、老いも勝ってきたということなのかもしれない。歳はとりたくないものです、という石川淳の言葉が、そろそろ実感をもって響くように確かになりましたわナ。
というわけで吉田拓郎に話を戻す(「というわけで」というのは、いつもながらに論理のインチキをやるには便利な言葉である。どんな哲学的思考でも、緻密さを気取る世間のマネジメント思考でも、「というわけで」的インチキ無しには思考は決して進まない。思考というもの自体が、どこまでもインチキなものなのである)。彼が作曲した『襟裳岬』に、岡本いさみという作詞家は北の地方の物語や雰囲気をイメージ付けしたわけだが、この曲はどうやら、もともとタヒチのフォークロアだったらしい。Youtubeでこの点を指摘している人たちがいたので、ちょっと調べてみるうち、Tahi Tia Maiという曲が見つかった。聴いてみたら、たしかに『襟裳岬』そのものの曲である。フランスの歌手AntoineがこれをアレンジしてAttends-moiという曲にもしているが、この歌手も吉田拓郎と同じく、パクった口だろうか。インターネットには、Emma Terangiという女性歌手がこの元歌を歌っているのが無料で聴けるサイトがある。彼女の歌い方にもアレンジがされているのかもしれないが、それでも、ポリネシア風の『襟裳岬』が聞こえてきて、なぁんだ、と思わされる。当時の吉田拓郎に一面において代表されるような、ぼくの小父さんたちや兄ちゃんたちやお兄さんたち世代の内実というのは、じつはこんなものだったのか……
どんな文化も借り物に次ぐ借り物だと言ってしまえばそれだけのこと、レヴィ=ストロースふうにブリコラージュと言い換えてみたって、実質が大きく変わるものでもないだろうが、カラオケで情緒たっぷりに『襟裳岬』を熱唱する中高年日本人たちを思うと、このペラペラさ加減と融通無碍さに、あらためて驚嘆させられる。換骨奪胎とか、無から有を創り出すとか。そう言い換えるインチキさもまた、もちろん大いに好むところではある。
◆この文章は駿河昌樹文葉「トロワテ」92号(2009年4月)にも掲載された。
という、一緒にいる存在にすでに「共有」されている理解
に、もっとも近いところから直接に起こる。
(ハイデガー『存在と時間』、細谷貞雄訳)
昭和四十九年、森進一が第十六回レコード大賞を受賞して『襟裳岬』を歌った際、後ろには作曲した吉田拓郎と作詞の岡本いさみが立っていた。喜びのためだろうが森はいささか放心気味で、ときに緊張気味にさえ見え、岡本も居心地の悪さや恥ずかしさに耐えて、それなりに威儀を正してちゃんと立っている。 しかし、腹のあたりで少し体を捻じくらせたようにして立っている吉田拓郎の姿はどうだろう。ジーパンにジージャン、どこに出ようとけっして体をピンとさせず、ダラッというか、タラッというか、場に合わせるということをしない若い男が、逆に、誰よりもしっかり其処にいるというふうに見える。いま風にいえば、KY(空気読メナイ)とでもいう言葉を持ち出せばいいところだろうか。KYこそ人間が人間たる最低条件でしょう、といった雰囲気。
久しぶりにこの映像を見ながら、いわゆるバブル期以降から現在に至るまでの日本が失った最たるものはこれだったのかな、と感じた。七〇年代まで、当然のようにどこにもいたこんな姿、その場の雰囲気にはとにかく合わせないし、すぐにフケるし(いなくなること、ずらかることをこう呼んでいたものだ)、うるさく声を張り上げたりはせずともNOを表明し続けるといった連中の姿(高校の生徒会などはどんな場合であれ反対の嵐で、なにひとつ決まらなかったのを思い出す)。八〇年代が進むにつれてこれはだんだんと消えていき、平成に入ると、マニュアルを見よう見真似してでも流行や風潮に先ずは従っておくという柔らかなヒットラーユーゲント隆盛の時代となった気がするが、一九五九年生まれのぼくには、森進一の背後にタラッと立つ吉田拓郎の姿は懐かしく見え、頼もしく見えた。ぼくにとって小父さんたちや兄ちゃんたち、お兄さんたちに当たるこういう上の世代のタラッとさ加減に、思えば、ぼくはずいぶんと支えられてきたし、彼らのこんな雰囲気があったからこそ、それを取り込んだり、それに反発したりしながら振舞い方を自然に作り上げてきたのだろうと感じる。八〇年代に次第にこうしたタラッと系が消えていくにつれ、たぶん、良かれ悪しかれ行動規範のように自分の中で機能していたものを、ぼくは失っていくように感じていた。その後の日本社会は、奇妙というか、おそろしいまでにストレートに場の雰囲気にあわせる人間を良しとするコードに領されるようになり、ぼくには気持の悪い、居心地のすこぶる悪いものとなった。
世代論は誰でも知っているように粗雑で嘘っぱちだし、ひとりの人間が自分の世代を代表して何ごとか語れると思い込むのも愚かしい限りだが、ぼくら五〇年代最後生まれの日本版“失われた世代”、ないしは沈黙の世代は、他の世代にはない重荷をずいぶん背負わされてきた、と言ってみたい時が多い。ぼくは愚かなので、自分の世代を代弁してひとしきり考え込んだり語ったりするのはけっこう好きなのである。
インチキが多分に含まれるのを承知で概括してみれば(くどくなるのを承知で言い添えておくが、インチキというのは大好きで、もうワクワクしちゃうのである)、ぼくらの親たちや先生たちにあたる三〇年代生まれ世代は、現在の七〇歳代半ばあたりの人々で、この世代というのは品行方正志向がつよく、自分たちを新しい人間と思いたい一方で人間関係においては古い秩序の信奉者であるし、倫理や思考様式は小市民的かつ保守的で、子供や学生が反抗的であるのを根本的に認めない。高度成長期の真ん中で生きてきて、同じサイクルや方法論を継続していけば世の中は回っていくという信仰が抜きがたい。もっとも、終戦時に十代はじめだったため、根本の世界観には案外融通のきくところもあるので、いま目の前にある現実を信じ込んでいるわけではない。案外と気弱なところもある。
いっぽう、ぼくの叔父たちや兄たち、近所のお兄ちゃんたちや先輩たちの中で目立つのが四〇年代生まれ世代、なかでも全共闘世代と団塊の世代で、これはぼくから見れば、とにかく親や先生たちの三〇年代生まれ世代やそれ以前の世代の価値観や生活感とズレている人たちで、前の世代にたいしてけっこう露骨な反抗もするし、思いきった無視もクサシもする。ぼくの親類には、全共闘世代も団塊の世代もいたので、幼年時代からぼくはさんざんそういう光景に接してきた。子供ながらに、これらの世代の異議申し立てや柔らかさ(それはもちろん狡さでもある)には助けられたし、生活環境を楽にしてくれるところのある態度の体現者だとも思ってきた。
ぼくら五〇年代最後生まれ世代の場合は、三〇年代生まれ世代を親や先生に持つ手前、表面的には秩序尊重、品行方正と見せる必要があり(そうしないと昔は殴られた)、四〇年代生まれ世代を先輩や兄ちゃんたちとして持ったがために、内面的には反抗や逸脱を当然のこととして成長していくようになった、――こんなところが世代の基本的な性格構成につながったのではないかとよく思う。表面的には既成秩序を尊重し維持するように見えるので、四〇年代生まれ世代から見れば苛立たしく、嘘らしく、保守的にも没個性的にも見えるようだが、内面では眼前の秩序をほぼ百パーセント否定しており、これっぽっちの尊重もしていない。嫌いなもの、尊重しないものを平然と維持し、採用し、使用し続けられるところが、四〇年代生まれ世代にはまったく理解できないらしい。(例えばぼくは、職場で自分がもっとも嫌悪するスーツやネクタイをよく利用してきたが、嫌いだからこそ自分が身につけて、それを世の中に見せつけるという心理がここには働いている。これはどうやら相当にひねくれていると見えるらしく、なかなか理解されない。服装にかぎらず、ぼくが外面的にも内面的にも――内面などもちろん外面でしかない!――身のまわりに置いているものは、ほぼどれも嫌悪するものばかりである。このひねくれ具合、ねじくれ具合というのは、歴史的文化的にぼくらの世代の中にのみ畳みこまれた襞のようなものと言えるのではないか)。
四〇年代生まれ世代による、準備不足もいいところの大小さまざまの革命の試みがことごとく失敗してきたのを見ているので、完全に機が熟するまでは右左含めての古典的網羅的な見識を吸収するのに努めつつ、あくまで保守派の皮をつねに被り、内部ではしかし、すべてに飽き飽きしていて、すべてを覆す準備を進めている。――なんだか『危険な関係』を書いたラクロの精神のようだが、こんな部分が五〇年代最後生まれ世代にはあるように感じる。高度成長以前からの日本を見てきているので、日本が先進国に成り上がっていくカラクリのインチキさも体で掴んできており、現代日本の生活様式だけによって生活観や世界観を拘束されるということがない。いっぽう、幼時から高度成長の波の最先端に乗ってサーフィンさせられてきて、昨今の環境問題や金融危機による資本主義の黄昏にまで付き合いが続いてきているので、第二次大戦後の恩寵的欺瞞的平和と物質的繁栄のAからZまで、ほぼ見尽くしてきている。つまりは、選択肢のうちのひとつが五〇年代以降の日本において展開されたにすぎないものとして現代日本史を見ており、この歴史的事実をべつに重要だとも思わないし、もはや見飽きた風景に過ぎないとの思いが強いがために、これまでの時代を残そうとなど露ほども思っていない…… どうも、こんなところが多分にあるように思えてならない。
大げさなことも言いたくないし(本当はそういうのは大好き)、概括的なことばかり言い続ける気もないが(本当は幾らでもある)、社会や生活様式や街の変質こそを常態として受けとめてきたぼくらの世代の多くは、いま目の前にある日本社会をそのまま維持していきたいなどとは、これっぽっちも思っていないのではないだろうか。ある物については現在のかたちがいいと思うが、別のある物は五〇年代のかたちのほうがいいと思ったり、他のある物は八〇年代はじめあたりのかたちがよかったと思ったりする。こんな見方をすべてに対して採る五〇年代最後生まれ世代は、おそらく社会のあらゆる面をなるがままに放っていくだろうけれども、仮に改革に本気で着手せざるを得なくなった場合には、ずいぶんと選択基準のまちまちなゴッタ煮的社会構成を行う可能性があるかもしれない。とにかく、あれでもいいし、これでもいい、これがダメなら、またあれにかえてもいい、というのがこの世代の根本精神なのである。それはハード面だけのことではなく、政治制度から価値観、倫理に至るまで同じ。つい昨日まで続いてきたもの、培われてきたものをあっさりと立ち切って、まったく別の社会や国家を平然と打ち立てる、かと思うと、またすぐに元に戻してみたりするのではないかという気がする。いま現在、あたかも主流のようになって生起している社会や文化の様態をまったく認めておらず、面白いとも価値があるとも思っておらず、先行世代や後に続く世代の価値観や感性をまったく認めてもおらず興味も実はまったくないという点では最右翼の世代なので、いずれそう遠くないうちに、歴史に残る文化断絶を目に見えるかたちでも惹き起こすかもしれない。事実、ぼく自身、憲法改正は当然のこと、国名を替えたり、政治制度を完全に変えたりという発想をごく当然のものとして持っている(これは右傾化云々とは関係がない。天皇制そのものの排除のために憲法改正が必要だというまでのことである。改正のポイントがまるで違う)。選択・変更がいつでも可能なものとしての生活上のノウハウの厖大な蓄積は日本列島居住民にとって重要だと思うが、社会を一定規範に嵌め続けるものとしての文化の伝承などどうでもいいし(ローマ人に対するフランク族、あるいはノルマン人のようであること)、合理的かつ理性的な国家実験を早くやりたくてうずうずしている。左翼でも右翼でもなく、日本ジャコバン派なのだといつも自称してきたが、ようするにこの六〇年ほど日本を拘束してきた偏見(それを未だに文化だとか呼ぶ戯けた人々がいる)を、そろそろ本気で丸ごと捨てる方向に行きたいものだと思っているわけだ。この六〇年ぐらいの間に起こったこと、作られたものは、どれもあっさりと放棄され、破壊されてよい。人類はそういうものでしょ、この時代だけ歴史のこの基本性質を逃れるというわけにはいかないし、これから当然のように戦争も大災害もまた起こるし、引き続く大量死の時代も戻ってくるでしょ、と、ヨーロッパ保守主義から学んだ口ぶりを使ってたしなめておきたい気もする。
せっかく吉田拓郎のタラっとさ加減の話だけをしようと思って書き始めたのに、「たしなめる」などという身振りにまで至ってしまうというのは、老いも勝ってきたということなのかもしれない。歳はとりたくないものです、という石川淳の言葉が、そろそろ実感をもって響くように確かになりましたわナ。
というわけで吉田拓郎に話を戻す(「というわけで」というのは、いつもながらに論理のインチキをやるには便利な言葉である。どんな哲学的思考でも、緻密さを気取る世間のマネジメント思考でも、「というわけで」的インチキ無しには思考は決して進まない。思考というもの自体が、どこまでもインチキなものなのである)。彼が作曲した『襟裳岬』に、岡本いさみという作詞家は北の地方の物語や雰囲気をイメージ付けしたわけだが、この曲はどうやら、もともとタヒチのフォークロアだったらしい。Youtubeでこの点を指摘している人たちがいたので、ちょっと調べてみるうち、Tahi Tia Maiという曲が見つかった。聴いてみたら、たしかに『襟裳岬』そのものの曲である。フランスの歌手AntoineがこれをアレンジしてAttends-moiという曲にもしているが、この歌手も吉田拓郎と同じく、パクった口だろうか。インターネットには、Emma Terangiという女性歌手がこの元歌を歌っているのが無料で聴けるサイトがある。彼女の歌い方にもアレンジがされているのかもしれないが、それでも、ポリネシア風の『襟裳岬』が聞こえてきて、なぁんだ、と思わされる。当時の吉田拓郎に一面において代表されるような、ぼくの小父さんたちや兄ちゃんたちやお兄さんたち世代の内実というのは、じつはこんなものだったのか……
どんな文化も借り物に次ぐ借り物だと言ってしまえばそれだけのこと、レヴィ=ストロースふうにブリコラージュと言い換えてみたって、実質が大きく変わるものでもないだろうが、カラオケで情緒たっぷりに『襟裳岬』を熱唱する中高年日本人たちを思うと、このペラペラさ加減と融通無碍さに、あらためて驚嘆させられる。換骨奪胎とか、無から有を創り出すとか。そう言い換えるインチキさもまた、もちろん大いに好むところではある。
◆この文章は駿河昌樹文葉「トロワテ」92号(2009年4月)にも掲載された。
2010年8月22日日曜日
ベストセラーときもの(7) 川端康成『古都』
はじめて身に添わしてみる着物と帯、しかし、これぞというもので装って出た時、見知らぬ人に声をかけられ、褒められるのは楽しかろう。虚栄心がくすぐられて、とばかり思うものでもない。美意識や感性の共有が、思いがけないところで確かめられる瞬間で、人の世にある喜びの滲む時でもある。
川端康成の『古都』の主人公のひとり、苗子は、時代祭の日にそんな経験をする。着たこともない着物と帯で、御所の蛤御門のかげで人を待っていると、
「お嬢さん、ええ帯やこと。どこでお買いやした。おめしものにもよう似合うて……」
つかつか近づいてきた中年の商家のおかみらしい人がこう言い、「ちょっと」と、触りそうにして、「うしろのおたいこを見せてもらえしまへんやろか」
お洒落といいファッションといい、しっかりと見て、受けとめてくれる相手がいないことには話にもならないが、着物ほど、高い美意識と感性を分かち持つ相手を要求してくる衣装も少なかろう。他人の着物姿を愛でること自体、繊細で奥深い文化のあかしといえる。
『古都』には、着物に敏感な市井人たちによって支えられた、こうした美意識のたしかな網の目がある。四季おりおりの景観、それに寄り添うようにして催される京都の行事、そこここの名所などがふんだんに散りまかれ、そのなかに人間模様のうるわしさ、哀しさの湛えられていく絵巻のような小説だが、登場する人びとの感性のいずれもが、着物の柄や意匠、着方のよしあしに張り切っている。そのうえ、水際立った文章と構成の妙が極限まで到った観があり、開花時期の桜の色が、花以外のすべてにも沁みとおっているように、作品の端々にまで着物が匂う。
昭和三十六、七年あたりまでの京都は、こうもあったろうか。それとも、当時の川端にとってさえ、『古都』の世界は、壺中の天地、すなわち、俗世間を離れた別天地のようなものであったか。
北山の山奥で生まれ、生まれ落ちるや、すぐに別れわかれになった双子の姉妹の話で、京都の町中に捨てられた千重子、そのまま山中で育っていった苗子、ふたりが年頃になって邂逅するものの、事件らしい事件などは起きず、ただ互いの心の深くに、人間の宿命というものへの悟達が静かに下りていく、そんな小説である。あわただしい二十一世紀のいま、読み返してみると、どのページを繰っても、静謐と充実とに心をくまなく浸され、得がたい慰撫の読書時間が続いていく。
しかし、着物好きや、着物の関係者には、厳しい学びの小説でもあろう。
千重子の育ての父、太吉郎は、中京の京呉服問屋の主で、友禅の下絵も描く。若い頃は、麻薬の助けを借りて抽象的な模様を描いたが、戦後、着物の模様も激変し、優れた図案家たちが減ったなかでは、かえって「思いきった古典調」をと意気込んだりする。しかし、「むかしのすぐれたものが、数々目に浮かんでくる。古代裂や古い衣装の模様や色彩は、みな頭にはいっている。もちろん、京の名園や野山も歩いて、きもの風に写生もしていた」。知り過ぎているのだ。こんな事情から、創作もうまく進まない。苦労して仕上げた帯の下絵も、懇意にしている西陣の織工・大友宗助に見せにいくと、腕の立つその息子・秀男に、「ぱあっとして、おもしろいけど、あったかい心の調和がない。なんかしらん、荒れて病的や」と批評されたりする。
三代続くのがむずかしいという西陣の手織機のなかで、「仕事が顔にもからだにも残っている風」の、この若い秀男もまた、半端でない気むずかしい職人で、千重子を慕い、彼女に生きうつしの苗子を慕う。千重子の幼馴染の友人・水木真一の家も室町の大きな着物問屋で、その兄の竜助は、やがて千重子と結婚することになりそうな気配である。着物の世界の、それぞれの領野の専門家たちの生、感性、思いが、千重子と苗子、この美しい双子の姉妹の生にこまかく織り込まれている。
生業としての着物の業界のむずかしさは、そのまま現代に通じる描き込み様だろう。中京の京呉服問屋とはいえ、太吉郎の仕事は順調でなく、貧乏してでも「静かな南禅寺か岡崎のあたりのちっちゃい家に移って、着尺や帯の図案を」考えて生きていこうかと、いつも思っている。西陣着尺の買いつぎ商社はあいついで倒産し、着尺織物工業組合は八日間もすべての機を止め、減産を試みる。
そんななかで、時分の花かもしれぬが、千重子の、そして苗子の、若さ、美しさが香る。ある晩、寝つかれぬ千重子が香水を散らして床に就いたのち、育ての母がかたわらに身を横たえて言う言葉が、忘れがたい。
「ええ匂いがするわ。若いひとやな」
◆この文章は、若干の修正を加えた上で、「ベストセラーときもの・川端康成作『雪国』」として「美しいキモノ」二〇一〇年秋号にも掲載された。
★また、次の雑誌にも掲載された。
・駿河昌樹文葉「トロワテ」101号(2010年8月)
・THE MAIL 330(17/August/2010)
2010年8月19日木曜日
立て膝をする雪子 ――『細雪』の悦楽
あらゆる性的逸脱のなかで、おそらくもっとも特異なのは貞節であろう。
レミ・ド・グールモン
市川崑の映画では『細雪』の三女雪子を吉永小百合が演じていて、あの人物の蔵している控えめな倣岸さというものがよく出ていた。が、もちろん、吉永小百合では雪子には不適格なので、蒔岡姉妹のうちで「一番細面の、なよなよとした痩形」だという雰囲気とはまったく違ってしまっている。
小説中の次のような描写を見ると、吉永小百合の雪子がいかにミスキャストであるかがはっきりする。立秋を過ぎたというのに暑さがぶり返した日、「熱気の籠もった、風通しの悪い室内」で貞乃助が、めずらしく着物でなしに「ジョウゼットのワンピース」を着ている雪子を見る場面である。
「濃い紺色のジョウゼットの下に肩胛骨の透いている、傷々しいほど痩せた、骨細な肩や腕の、ぞうっと寒気を催させる肌の色の白さを見ると、俄に汗が引っ込むような心地もして、当人は知らぬことだけれども、端の者には確かに一種の清涼剤になる眺めだとも、思い思いした。
(…)雪子は黙って項垂れたまま、裸体にされた日本人形のように両腕をだらりと側面に沿うて垂らして、寝台の下にころがっていた悦子の玩具の、フートボール用の大きなゴム毬に素足を載せながら、時々足の蹠が熱くなると毬を廻して別な所を踏んでいた」。
こういうところをほぼ丸ごと無視して造形されたのが、市川崑の『細雪』における雪子である。これはたとえば、貞乃助の性格、というより人格を、小説とまったく違えた設定にしたところにも共通する、市川崑の趣味の表われかもしれない。石坂浩二演じる貞乃助は、色事好きの温厚な浮気者で、馴染みの女性美容師とも関係しており、雪子ともどうやら深い関係を持っているのでは、と匂わせていた。原作を深いところで破壊してしまっているともいえそうな改変だった。
戦中の執筆ということもあって、谷崎作品に一貫して流れていた耽美的エロティシズムの追求は、原作の『細雪』ではほとんど取り除かれたか、あるいは極限まで後退させられてしまった、といってよい。谷崎作品にとって重要なそういう部分をあえて甦らせ、強調もして、翻案というよりも、あるべき真の『細雪』の姿の再現をするというほどの意欲が、市川崑にはあったのかもしれない。そもそも『細雪』が、関西の上流家庭の堕落した性風俗を描く意図から『三寒四温』という題で構想されていたことや、谷崎における倒錯が、総じて時代の大勢となっている趣味への反抗の色合いを持っていたことを思えば、こうした真の『細雪』再現の意図というものがあっても、そう誤ったものともいえないところがある。
とはいえ、当の谷崎本人が今あるようなかたちで『細雪』を完成し、残したのだとすれば、いかに他の作品群と異なっているように見えようとも、それを、小林秀雄や中村光夫のように、みだりに思想性が弱いなどと批判して済むものではないだろう。彼の小説美学の別のかたちのものがそこに追及され、展開されたのには違いなく、それは現在の完成形そのものの中に探っていく他にはない。実際、いろいろな部分に、穏やかな家庭小説ふうの雰囲気を破るような微妙な設定や描写があったりする。
☆
雪子が洋服姿になった場面を先に引用しておいたが、『細雪』においては、なんといってもこの雪子に、突出して奇異なところが集まっている。谷崎の他の正統な、――というのも妙な言い方かもしれないが、谷崎らしいエロティシズムを追求した他作品と、この『細雪』とを結ぶもっとも重要な役割は、明らかに雪子が担わされている。
上巻の八章目に、次女幸子の娘の悦子が、学校の綴方の宿題に、飼っているアンゴラ兎と雪子のことを書く話が出てくる。学校の先生に提出する前に、雪子が読んで添削しておいてやるのだが、その中に、兎の片っ方の耳だけが立っているのに、もう片っ方が倒れてしまうので、雪子にそれを立ててくれるよう頼む場面が書かれている。
「私ハネエチヤンニ、『ネエチヤン、アノウサギノミミヲ立テテ下サイ』トイヒマシタノデ、ネエチヤンハ足デウサギノミミヲツマンデ、立テテオヤリニナリマシタ。シカシネエチヤンガ足ヲオハナシニナルト、ソツチノミミハマタパタリトタオレテシマヒマシタ。ネエチヤンハ『オカシナミミデスネ』トオツシヤツテ、オワラヒニナリマシタ」。
これは言うまでもなく、『登美子の足』や『瘋癲老人日記』で全開になる足フェティシズムに繋がる描写で、谷崎好きにとっては垂涎の箇所というべきだろう。「日本人形」のような趣のある雪子の足先が、アンゴラ兎の耳を抓み、立ててやろうとする。想像の中で雪子の感覚に入り込んで、自ら雪子の体となり、あの足を持ち、足先を持って、兎の耳という触れぐあいの微妙な箇所を抓むのを想像するのは、なかなか激しいエロティシズムを発生させる遊戯といってよい。足フェティシズム文学においても、アンゴラ兎の、それも体毛の部分ではなく、あえて耳の部分を、三十歳を過ぎた華奢な女に抓ませるというのは稀少と思われる。谷崎潤一郎という作家は、たっぷりと乗って書いていく時には、たいてい登場人物の語りを演じながら書いていくタイプなので、この箇所でも、小学生の女の子である悦子の語りに入り込んでいく快楽をまず確保し、そうしてそこに、戦前の小学生の綴方であるがゆえのぎこちなさをまぶし込み(カタカナ書きというのも、戦前の学校の綴方では普通だったのかもしれないが、谷崎の読者にとっては、なによりも『瘋癲老人日記』や『鍵』の文体に繋がる嬉しい書法でもある)、そういう口調によって雪子の華奢な肉体をとらえ込み、彼女の足先の感覚の中に流れ込んでいって、アンゴラ兎の耳を抓んでみるという、なかなかに複雑な手順を踏んでの官能を実現してみせている。そういえば、冒頭に引用しておいた暑い日の洋服姿の雪子を描く部分でも、雪子は足で「ゴム毬」を弄んでいた。もう一度、引く。
「(…)雪子は黙って項垂れたまま、裸体にされた日本人形のように両腕をだらりと側面に沿うて垂らして、寝台の下にころがっていた悦子の玩具の、フートボール用の大きなゴム毬に素足を載せながら、時々足の蹠が熱くなると毬を廻して別な所を踏んでいた」。
雪子が素足で「フートボール用の大きなゴム毬」に触れている様を描きながら、谷崎の快楽がいかほどのものとなっていたか、それをこってりと想像してみるところに、じつは『細雪』を読む本当の悦びというものがある。谷崎は、雪子の素足にもなりかわって全霊で「ゴム毬」に自らを擦りつけてみていただろうが、他方、「大きなゴム毬」そのものともなって、雪子の素足でいじくられる悦びを味わっていただろう。雪子の蹠が熱くなるのを感じ、「ゴム毬」である自分がくるりとひっくり返されて、また別のところを触れられるというのは、これはまた、なんという悦びであることか。
ここで雪子の素足が触れている「ゴム毬」が、やはり「悦子の玩具」であるのは、『卍』におけるレスビアニズムをもちろん容易に想起させるので、作者の喜びも読者の想像も、貞乃助が見たこの一場面に留まってしまうということがない。戦時下の谷崎が、彼としてはずいぶんと品行方正な書き方で『細雪』を書いていったようでいながら、彼の他の作品世界に容易に通じてしまう、こういう隠れ通路を方々に作っておいたということには、『細雪』の読者は気づいておかなければならない。こういう隠れ通路のすべてにではなくとも、たとえ、いくつかに気づくだけでも、『細雪』という作品全体は巨大な秘密めいた館となっていく。登場人物たちの誰もが、また、出てくる小道具や設定のどれもが、仄暗い裏側をぴったりと隠し持っているのが想像されてくるのである。
雪子の足ということでは、ある夕方に勤めより帰宅した貞乃助が、奔放な四女の妙子に足の爪を切ってもらっている雪子を見る場面もある。
「浴室の前の六畳の部屋の襖を開けると、雪子が縁側に立て膝をして、妙子に足の爪を剪って貰っていた。
『幸子は』
と云うと、
『中姉(なかあん)ちゃん桑山さん迄行かはりました。もう直ぐ帰らはりますやろ』
と、妙子が云う暇に、雪子はそっと足の甲を裾の中に入れて居ずまいを直した。貞乃助は、そこらに散らばっているキラキラ光る爪の屑を、妙子がスカートの膝をつきながら一つ一つ掌の中に拾い集めている有様をちらと見ただけで、又襖を締めたが、その一瞬間の、姉と妹の美しい情景が長く印象に残っていた」。
爪切りを使っているのか、小さな鋏を使っているのか、そこを書き込んでいないのは、忘れたのか、それとも故意の言い落としなのか。どうしてそれに言及しないのだろうかと、考えさせられる。「キラキラ光る爪の屑」が散らばっているとあるが、爪を切っている金属の道具のほうが、よほど「キラキラ」しているはずだろうに、なぜか、切り落とされた「爪の屑」のほうを「キラキラ」と書き込んでいるのだ。もちろん、爪をすっかり切り終わった後の光景とも考えられるが、まだ「爪の屑」が散らばっている時なら、爪切りや鋏は当然そこに見られるはずであろう。
こんなことが無性に気になってしかたがなくなるのも、『細雪』にたくさんの細かなこだわりが組み込まれているからである。単に谷崎が描き落としただけかもしれないところまでが、意味ありげに響きを立てはじめる。文芸表現の至高のあり方というべきではないだろうか。『陰翳礼讃』に収載されていた『懶惰の説』に、「昔は地唄をうたう場合に余り大きな声を出して発音を明瞭にいうと、かえって下品だといって叱られた」という老検校の話を出しながら、「人に聞こえないほどの微かな鼻声で唄っていても、自分では技巧の妙を味わい尽すことが出来、三昧境に這入れる」と考えるに至る件があるが、文章表現の上での同様な「三昧境」のひとつが、こんなところに実現されているのかもしれない。
この爪切りの場面でも、雪子の足はやはり素足として描かれているのを見ると、谷崎にとって雪子の足というのは、どうしても素足でなければならないものであるのらしい。しかも、その素足を、蒔岡家の四姉妹の中ではいちばん奔放で、好き勝手放題に恋愛沙汰を起こしたり、人形つくりや洋裁の仕事に精を出したりしている妙子の手にとらせ、かしずくようにして爪を切らせているというのは、なんとも印象的な場面といわねばならない。たしかに雪子は三女で姉ではあるし、家族の日常の中ではごく普通にありそうな光景ではあるけれども、それでもこの箇所は、この作品の中では異質な雰囲気を湛えている。無言の支配力を雪子が発揮しているような光景には、雪子という存在に対し、思わず谷崎が取ってしまう態度が表わされていまいか。
立秋過ぎの暑い日など、「黙って項垂れたまま、裸体にされた日本人形のように両腕をだらりと側面に沿うて垂らし」た格好をしてしまうところのある雪子を、人形つくりを趣味とも仕事ともしている妙子が世話してやっているのも、あまりに穿ちすぎの感はあるものの、忘れてならない関係性といえる。
それよりなにより、「立て膝」の最もふさわしくない雪子に、あえてそれをさせているところが、なんといってもこの場面の最も悦ばしいところだろう。貞乃助が、「浴室の前の六畳の部屋の襖を開ける」と、「雪子が縁側に立て膝をして」いる。慎みのない書き方をさせてもらえば、立て膝をすれば、女の隠しどころの唇は、左右ずれ気味になり、閉じ切ってはいないが開いてもいないという、曖昧な有様とならざるを得ない仕儀であって、谷崎が明らかにそこに焦点を定め、間接的に描いていっているのは疑いようもない。あからさまな語を用いて露わに描写したりせず、間接的に間接的にと、遠巻きに責め囲んでいくような描写で、読者を、いや、なによりも書いている自らをむちむちと悶えさせていくところ、谷崎潤一郎の真骨頂というべきものがある。
「スカートの膝をつきながら」、切った爪を「一つ一つ掌の中に拾い集めている」妙子の姿態を想像すると、両足をあわせて股を閉じて動作していると考えるのが自然だろう。雪子の隠しどころを思い描いてしまった読者は、ここで当然、妙子の隠しどころがぴっちりと締められているのを思い描かずにはおれない。物語の中では、他の姉妹にくらべて大胆で奔放なのが目立つように描かれている妙子に、じつは誰よりも慎み深い控えめな本質があるのではないかと思わされ、人物たちの性格設定が一瞬にひっくり返るような倒錯の感覚に読者は陥る。しかも、ここで貞乃助が、こんな「有様をちらと見ただけで、又襖を締め」るのだ。雪子の「立て膝」の姿の間近には「襖を開ける」描写を置き、両足をあわせて股を閉じているであろう妙子の姿の近くには「襖を締め」る描写を置くという、この周到さ。一枚の衣服も剥ぎ取っていないというのに、谷崎はここで、雪子と妙子をすっかり裸にしてしまっている。
☆
こういったところに敏感になってくると、『細雪』の細部細部は相互に連関しあって暴走を始めるようになり、読解は指摘するにも暇のない熱気に包まれていくことになる。後はひとりひとりの読者が際限もない愉しみの中にまよい込んでいけばいいわけだが、冒頭の引用箇所に見られたような雪子の華奢な姿態が、じつは『陰翳礼讃』に称揚されていた日本特有のエロスを湛えた女の体の、作中における具現化のひとつだったということなどには、やはり気づいておいたほうが愉しい。しかも、この女体の体型は、谷崎文学のテーマのひとつである「母」とも密接に結びついている。
「母は至ってせいが低く、五尺に足らぬほどであったが、母ばかりでなくあの頃の女はそのくらいが普通だったのであろう。いや、極端にいえば、彼女たちには殆ど肉体がなかったのだといっていい。私は母の顔と手の外、足だけはぼんやり覚えているが、胴体については記憶がない。それで想い起すのは、あの中宮寺の観世音の胴体であるが、あれこそ昔の日本の女の典型的な裸体像ではないのか。あの、紙のように薄い乳房の附いた、板のような平べったい胸、その胸よりも一層小さくくびれている腹、何の凹凸もない、真っ直ぐな背筋と腰と臀の線、そういう胴の全体が顔や手足に比べると不釣合に痩せ細っていて、厚みがなく、肉体というよりもずんどうの棒のような感じがするが、昔の女の胴体は押しなべてああいう風ではなかったのであろうか。今日でもああいう恰好の胴体を持った女が、旧弊な家庭の老夫人とか、芸者などの中に時々いる。そして私はあれを見ると、人形の心棒を思い出すのである。事実、あの胴体は衣裳を着けるための棒であって、それ以外の何物でもない。胴体のスタッフを成しているものは、幾襲ねとなく巻き附いている衣と綿とであって、衣裳を剥げば人形と同じように不恰好な心棒が残る。が、昔はあれでよかったのだ。闇の中に住む彼女たちに取っては、ほのじろい顔一つあれば、胴体は必要なかったのだ。思うに明朗な近代女性の肉体美を謳歌する者には、そういう女の幽鬼じみた美しさを考えることは困難であろう。また或る者は、暗い光線で胡麻化した美しさは、真の美しさでないというであろう。けれども前にも述べたように、われわれ東洋人は何でもない所に陰翳を生ぜしめて、美を創造するのである」。(『陰翳礼讃』)
谷崎はさらに、「美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰影のあや、明暗にある」とも、「われわれの祖先は、女というものを蒔絵や螺鈿の器と同じく、闇とは切っても切れないものとして、出来るだけ全体を蔭へ沈めてしまうようにし、長い袂や長い裳裾で手足を隈の中に包み、或る一箇所、首だけを際立たせるようにした」とも言う。陰影、闇、曖昧なもの、どちらともつかぬものを愛惜する彼が、それらと「女」というものとを結びつけながら、日本文化の本質に踏み入っていこうとする重要な思索が続いていくのだが、こうした美的な理想を、昭和はじめの現実の時間の中に生かそうと試みたところに、『細雪』の雪子の人物造形はあった。
このあたりは谷崎文学の核心で、ここからは、彼の様々な作品世界のあらゆるところへの道が通っている。『細雪』の雪子の肢体と『陰翳礼讃』のこういった思索をいったん結んでしまうと、無思想どころではない変幻極まりない魅力に彩られた珠のような小説として、『細雪』は受けとめざるを得なくなってくる。
雪子の肢体を、つまり、彼の理想の日本の女の肢体を、自らの視線で無骨にじかに包んでしまうような趣のない描き方を、けっして谷崎はしない。引用してきた雪子の足に関わる部分が、二度にわたって貞乃助のまなざしで捉えられていたことなどでもそれはわかるが、この小説が、そもそものはじまりから、妹の雪子や妙子のためによかれと祈る、世話役の次女幸子の、愛情に満ちたまなざしで眺められて開始されていたことには、よくよく注意しておいたほうがよい。
「『こいさん、頼むわ。―――』
鏡の中で、廊下からうしろへ這入って来た妙子を見ると、自分で襟を塗りかけていた刷毛を渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据えながら、
『雪子ちゃん下で何してる』
と、幸子はきいた」。
ひと続きに書かれたこの驚くべき文は、ことのほか傑出した書き出しの文として、なんとも忘れがたい。妙子に声をかけ、鏡を通してその姿をとらえる一方、三女の雪子のことを気にかけ、そうして同時に、自分の顔も鏡の中に「他人の顔のように見据え」る幸子の意識のあり方が、読者にいささかの苦労も強いることなく、さらりと表現されている。
こんな冒頭からはじまった『細雪』は、いちおうは三人称体で書かれながらも、妹ふたりに対する幸子の、さらにはその夫の貞之助の愛情に浸されて、この夫婦ふたりのまなざしを通すかたちで、あるいは彼らのまなざしに近接しながら、時に、わずかにずれる、というかたちで描かれていく。谷崎には、いつも作中人物の誰かの意識や、口調や、まなざしの中に入り込んで、彼らになり切って物語っていくのを愉しむ性格コスプレとでもいうべき癖があるが、『細雪』でもこれは一時も止まない。その結果として、開放型の、閉じられていない、あえて不完全さを保持した三人称体、とも呼びたくなるような書法が取られるに至ったように思う。語り手のではなく、作品全体の構造や趣向の統括者たる作者の、思えば、ずいぶん直接的な一人称体ともいうべき三人称体なるもの。その不可思議さと可能性は、文学研究の進んだ現代でもまだ十分に解明されてはいないように思うが、『細雪』が、そうした研究の際の第一級資料かつ対象であり続けていくのは、まず疑いのないところであろう。
*『細雪』は新潮文庫、『陰影礼讃』は岩波文庫『谷崎潤一郎随筆集』より引用。ただし、不要と思われるルビは、筆者の判断で大幅に減らした。
◆この文章は、駿河昌樹文葉「トロワテ」53号(2008年2月)にも掲載された。
『細雪』、四季のめぐりへの讃歌
なかなか結婚しない娘が家にいたり、奔放な娘に一家が翻弄され続けたりすることの愉しさ、豊かさ。
『細雪』に触れるたび、これを思う。
大阪船場の没落商家、蒔岡家の四姉妹をあつかうこの小説では、蘆屋に住む次女の幸子と夫の貞之助が、家の体面を最優先する長女鶴子とその夫辰雄の〈本家〉の目をいつも気にしながら、三女の雪子と四女の妙子のことで、てんてこ舞いさせられ続ける。純日本ふうの美しい控えめな箱入り娘、といえば聞こえはいいものの、極端なまでに内気で優柔不断な雪子は、再三のお見合いにことごとく失敗し続けるし、妙子は妙子で、人形づくりや洋裁に積極的なのはいいとしても、駆け落ち事件以来いろいろと色恋沙汰が絶えず、旧家にはふさわしからぬ奔放さである。
背景となっている昭和はじめの時代感覚でいえば、こんな対照的な娘たちを一家にふたりながら抱え込むのは頭の痛い話にちがいないのだが、じつは幸子も貞之助も、他ならぬこんな妹たちのおかげで、昔からの日本の四季の愉しみにたっぷり繋がっていられる。
四季のすこやかなめぐりを愛でることが、ことのほか日本人にとって大切なのはいうまでもない。近代の西欧化の怒涛に呑み込まれ、文化的に自失しかけたこの国では、自らの本質に立ち返ろうとするときなど、なんといっても季節にすがるのがてっとり早い。四季のめぐりこそが、ひょっとしたら、日本の自我であり神だったか。王朝時代の和歌の伝統にしても、季語を大切にする近世以降の俳諧や俳句にしても、四季のめぐりへの讃歌という点で一貫している。
一見、ごたごたや悶着ばかりひき起こす雪子や妙子なのだが、じつは彼女たちこそ、季節のめぐりや、それにぴったり重なってできている日本の伝統に、蒔岡の家をつないでいく巫女役を担っている。巫女が結婚などしていいわけがない。なぜ雪子のお見合いがうまく行かないか、なぜ妙子の恋愛がすんなりとは結実に至らないか、問うまでもないのだ。
雪子や妙子という巫女を配して執り行われる行事として、『細雪』では、春の花見、夏の蛍狩り、秋の月見といった場面がたっぷりと描かれる。冬の雪見もほしいところだが、それは描かれない。ひと季節をあえて欠く趣向を試みたか。それとも、作品名の『細雪』で、また雪子の名で、作中、つねづね象徴的に言及される愉しみを選んだものか。
『細雪』は、営々と続けられてきた『潤一郎訳源氏物語』完成の数年後に執筆が始まっている。作中の四季の行事が、この大仕事の余韻のうちに描かれていったとみるのは自然なことだろう。『源氏物語』のさまざまな巻の物語が、小説のあれこれの場面に二重写しになって思い出されてくる。阪神地方を襲った昭和十三年の大水害の場面にさえ、『須磨』『明石』の巻々の大嵐が重なってみえる。
蒔岡家のこうした行事のなかでも、欠かすことなく毎年続けられる春の京都への花見は、作品中の圧巻として忘れがたい。
「常例としては、土曜の午後から出かけて、南禅寺の瓢亭で早めに夜食をしたため、これも毎年欠かしたことのない都踊を見物してから帰りに祇園の夜桜を見、その晩は麩屋町の旅館に泊って、明くる日嵯峨から嵐山へ行き、中の島の掛茶屋あたりで持って来た弁当の折を開き、午後には市中に戻って来て、平安神宮の神苑の花を見る。(…)いつも平安神宮行きを最後の日に残して置くのは、この神苑の花が洛中に於ける最も美しい、最も見事な花であるからで、丸山公園の枝垂桜が既に年老い、年々に色褪せて行く今日では、まことに此処の花を措いて京洛の春を代表するものはないと云ってよい。されば、彼女たちは、毎年二日目の午後、嵯峨方面から戻って来て、まさに春の日の暮れかかろうとする、最も名残の惜しまれる黄昏の一時を選んで、半日の行楽にやや草臥れた足を曳きずりながら、この神苑の花の下をさまよう。そして、池の汀、橋の袂、路の曲り角、廻廊の軒先、等にある殆ど一つ一つの桜樹の前に立ち止まって歎息し、限りなき愛着の情を遣るのであるが、蘆屋の家に帰ってからも、又あくる年の春が来るまで、その一年じゅう、いつでも眼をつぶればそれらの木々の花の色、枝の姿を、眼瞼の裡に描き得るのであった」。*
お気に入りの着物でまわったら、これほど楽しい華やかな行楽もあるまい。事実、蒔岡家の姉妹たちが美しく装っているのはたしかなのだが、谷崎はこういう場面で、不思議なほど、着物について細かく描き込むということをしない。あたかもこの姉妹たちに、読者が思い思いのきものを着せて愉しめるようにと、あえて、空白のままにしてくれているかのようだ。
もっとも、巫女である雪子と妙子の着物については、そういう谷崎でさえ描き込んでしまうときがある。
四姉妹のうちで最もきもの映えする雪子が、蛍狩りをかねて見合いに蒲郡まで出かける際の「こっくりした紫地に、思い切って大柄な籠目崩しのところどころに、萩と、撫子と、白抜きの波の模様のある」一枚や、妙子が「雪」を舞うときの「白地に天の橋立」の一と襲ね、また、「葡萄紫に雪持ちの梅と椿の模様のある小紋」など。
ひょっとしたら、「一生あなた様に御仕へ申すことができましたらたとひそのために身を亡ぼしてもそれか(ママ)私には無上の幸福でございます」**と彼が書き送って、そうして結ばれるに至った最愛の松子夫人の、殊に大事にしていた実際の着物を、フィクションのなかにもぐり込ませてみたものかもしれない。
(註)
*この部分を含めて、本文中の『細雪』の引用は新潮文庫版による。
**昭和七年九月二日付根津松子宛書簡より。
◆この文章は、若干の変更をくわえた上で、アシェット婦人画報社『美しいキモノ』二〇〇八年春号の「創刊55周年記念企画『細雪』の世界」にも掲載された。
◆駿河昌樹文葉「トロワテ」54号(2008年3月)にも掲載された。
2010年8月18日水曜日
秋の実朝、良経の秋 ―すぐにも立ち去るさだめの者にとって
短い夏(2009年の夏)だったが、それでも八月のあいだは夏だという思いがあるためか、からだのうちにも心のうちにも夏があり、夏にむかっている気概のようなものもあった。梅雨がぐずぐず続き、冷夏とも呼ばれたが、思いのうちには、
水上のこころ流れてゆく水にいとど夏越の神楽おもしろ(壬生忠見)
のような熱が、やはりあった。それが、九月に入るといっぺんに薄らいでしまう。忠見の歌にあった熱はどこへともなく失せて、彼の父の
夏はつる扇と秋の白露といづれかまづはおかむとすらむ(壬生忠岑)
といった歌の気配に一気に入ってしまっている。
涼しくなって過ごしやすくなった、とはこの時候の古来のふつうの挨拶のしかただが、夏というものの急な退陣に見舞われると、その移りゆきを少しでも繊細に追おうとして、心はかえって忙しくなる。日本の秋は詩歌の王国なので、秋を詠んだ歌を見直す気持ちが募れば、なおさら。
そういう時に開く歌集はどれであってもよい。古今がいいとか新古今がいいとかいうのは、その程度の射程で満足していられる幸せな狭さにある者ならではの数えあげで、もう少し広く踏み出したら、選択肢はうんざりするほど増える。結果、どれでも手じかに取れるものを、となっていくだろう。さらに進んだ結果として、古今がいいとか新古今がいいとかいう言い方にふたたび戻ることがある。そういう人々によってこれらの集の名は箔を重ねられてきたわけだが、さんざん他の歌集に遊んできた結果の古今や新古今は、生涯かけた詩歌道楽の遊び人本人にとって、これらの集に含まれないあらゆる詩歌をもひっくるめての、総体的な呼び名のようなものであろう。まるっきり意味あいが違ってしまっている。
勅撰集がどうのと拘らずに、たとえば天才藤原良経の『秋篠月清集』の、
さびしさや思ひ弱ると月見ればこころの底ぞ秋深くなる
こんな壮絶な名作を拾い拾いして読んでいってもいいわけだが、これはこれで、また忙しくなっていく。もちろん、藤原定家をはるかに凌ぐ良経のような異様なまでの大才の場合、一首としてこちらの緊張を緩ますものはなく、あの至上の名歌、
幾夜われ波にしをれて貴船川袖に玉散るもの思ふらむ
見ぬ世まで思ひのこさぬ眺めより昔に霞む春のあけぼの
後の世を此の世に見るぞあはれなるおのが火串を見るにつけても
などに幾度となく引かれ、引きとどめられ、四季を通してさまざまの歌を通覧して一夜ふた夜を過ごすということになるわけだが、しかし、忙しくなるというのはそういうことばかりでなく、名歌と呼ばれながらもあまり自分には好ましく見えない歌の数々にもいちいち目をとめて、そうしていちいちの今秋の取捨選択をしなければならないというような、そんなことも含まれてくる。たとえば、古今調全盛期に独自の歌風を保った豪快な異端、曽禰好忠の精神や才気には敬意を払うものの、
鳴けや鳴け蓬が杣のきりぎりす過ぎゆく秋はげにぞかなしき
にはさほど今秋は惹かれないし、伊勢の
世の中はいさともいさや風の音は秋に秋そふここちこそすれ
なども、技巧の微妙さには注目しても、さほど立ち止まりたいというほどの歌には感じられない。
そんな中で、かつてずいぶん読み、なにかわかったつもりにもなり、愚かにも卒業したつもりでいた時期さえあった源実朝の歌などには、ふと立ち止まってしまうことが多い。
萩の花くれぐれまでもありつるが月出て見るになきが儚さ
夕月夜おぼつかなきに雲間より仄かに見えしそれかあらぬか
一見、些細なひっかかりを軸に必死で歌体をこしらえたかにも感じられるが、落ち着いて見直してみれば、現実というものの覚束なさに戸惑う若い歌人の心が、詩的な装いもなしに、ずいぶん無防備に曝されている。人が当然のように言動の土台とする世の中のあれこれが、自分にはどうしても確固としたものとは感じられぬ、そんな思いの中から自然に出てくる言葉の、その口ぶりが実朝の独異性を露呈させていて、いろいろと気づかされる気がする。しかし、彼のあの死にざまを知っているからといって、この歌の頃からすでに無の側に魂を置いていたのか、などと思いを先走らせたりすると、
世の中は鏡にうつる影なれや有るにもあらず無きにもあらず
と来る。無という言葉を簡単に弄んだり、それで安手の詩的ヒロイズムに耽って得々とするような境遇に、まだ若かったというのに、実朝はすでにない。鎌倉の鎌の偏と、中国で太政大臣、右大臣、左大臣を表す槐の字を併せて題名とした『金槐和歌集』は、実質的には二十二歳までの歌を集めたものというが、それを思うと、詩歌つくりに安易に用いられがちな思考法を繊細に避けて作歌していく詩的倫理のこうした表われには、いっそう驚かされる。
うち忘れ儚くてのみ過し来ぬあはれと思へ身に積る年
なども、どうだろう。歌の華を咲かせたというような、決定的な名歌といったものではない。しかし、生活の中の心の拠りどころを求めようとして言葉に触れる者には沁みる。「うち忘れ儚くてのみ過し来ぬ」は、人間というものの生活の核心を洩れなく表現し、「あはれと思へ身に積る年」で哀歌とも鎮魂歌とも挽歌ともなっている。これ以上つけ加えるなら、他のどんな文学的表現も無駄事と呼ばれかねない。「以上簡潔に手ばやく叙し終りうすむらさきを祀る夕ぐれ」(岡井隆)。これぐらいならば加えてもよいだろうが、この世について、いや、地球滞在に関する言語記述としては、これで、もう十二分過ぎる。もちろん、場合によっては、「大空の斬首ののちの静もりか没ちし日輪がのこすむらさき」(春日井健)などとさらに加えていく手もある。が、この場合、もう、なにも語っていない。ただ、束の間の体験地である地球環境を見る目となっているばかりだ。言うまでもなく、文芸の至高のありようである。
さらには、次のような歌、
身に積る罪やいかなる罪ならむ今日降る雪とともに消ぬらむ
罪という語のこの扱い方はどうだろう。ここに実朝の罪概念の浅さを見たがる仏教家もいるかもしれないが、彼における罪は、事実、「今日降る雪とともに消ぬらむ」といった程度のものでしかあり得なかったのかもしれない。罪という言葉が、権力機構としての仏教が人心を惑わし支配するために用いる妄想でしかないとまでは、彼はおそらく認識していなかっただろうが、この世に生を受ける程度の希薄な罪の持ち越ししか帯びていなかった実朝には、罪という語や概念で束の間の地球体験を暗ませる発想は、ただただ奇異に感じられていたのではないか。罪などという言葉を弄んでいる暇はない。そんな儚い概念の遊びをしている暇はない。「うち忘れ儚くてのみ過し来ぬあはれと思へ身に積る年」なのだから。気を払うべきは「身に積る罪」ではなく、「身に積る年」なのだから。
あれこれと彼の歌を読み直していると、他人のものであれ、自分のものであれ、「罪」のような概念やそれを捏造して利用する地上権力などを、嫌ったというより、そんなものにつき合っている暇はない、というのが実朝の実状だったと感じられてくる。そう思って見ると、
大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ
もののふの矢竝つくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原
こういった代表作も、単に万葉調の典型と見て済ましておけばいいのではなく、遅かれ早かれ誰もが去っていかねばならない地球環境を、束の間与えられた人体の感官によって掴んで、少しでも手ごたえ強く経験しておきたいという切羽詰まった衝動の表われと感じられる。生きることが地球体験ならば、なすべきことは、「罪」などの言葉で概念の遊びをすることではないだろう。与えられたものを使って、与えられた場を、できるだけの強度で経験する。和歌という道具が強いてくる限定や限界はあったが、限定というものにつねに無限が隣りあっていることぐらい、詩人が知らないわけもなかった。
「罪」ありとされた者にも、ないとされた者にも、ひとしく鮮やかに経験されるもので地球は溢れている。ならば、「罪」とはなにか。ツミ、ツミ、と鳴き、あるいは他の概念のあれこれを鳴き、社会を構成する人びとというものは、あゝ、浜の千鳥のようなものではないか。
朝ぼらけ跡なき波に鳴く千鳥あなことごとしあはれいつまで
地球滞在への、あらかじめの辞世と見てもよい歌だろう。人が時代と呼び、文化と呼び、あるいは価値あるものと呼ぶようなものを、彼は「跡なき波」と言っている。「あなことごとし」、まぁ、大げさなことよ、仰々しいことよ。この言葉が、千鳥と人間の対照を保証している。どんな概念を鳴こうとも、人間の鳴き声も「あなことごとし」としか、他の存在からは受けとめられないだろう、と。
「あはれいつまで」という結句は、声聞や縁覚が抱く現世理解から菩薩的な境位への踏み出しにも見えるが、もちろん実朝にとって、そうした仏教的な身振りなどどうでもよい。千鳥も人も、どこからか生を受けてやって来て、いつか去っていく。ひとしきり千鳥をやらされ、人をやらされて。あはれいつまで。あはれいつまで。
この、永遠でなどないとわかり切った上で記される「あはれいつまで」には、甘えはない。自分もそこに含まれる以上は感傷でもなく、どうにもできない以上は慈悲でもない。そもそも、千鳥たちに「罪」などない。人間にも「罪」などない。ならば、慈悲などという言葉の必要とされる余地もないではないか。ただ来て、ひとしきり鳴き騒ぎ、やがて消える。そこにはいかなる「罪」の入り込む余地もなく、救わねばならない何ものもない。「あはれいつまで」は慨嘆でさえなく、消えるとわかっているものについて、それが単にいつまで継続するのかと、実朝の思考が機械的に反応したというに過ぎない。そうした場合、想定される継続時間をどう評価したものか、どう評定したものかと、いわば技術的に思い迷う時に、人は「あはれ」に類する言葉を洩らす。そもそも、もののあはれとは、評価や評定の困難の麗しさ、その時の快楽のことと決まっている。人間は、そうした評定不能の快楽に達しようとして、文化的と呼ばれる営為に向かうだけのことでもある。
この歌に宗教性があるとすれば、「朝ぼらけ」の中で、「跡なき波」も「鳴く千鳥」も捉えているところだろう。「朝ぼらけ」という環境の中にすべてを展開させているところに、善悪も楽苦も包み込む仏のひかりを詠み込んでいると、言おうと思えば、言えなくもない。しかし、仏などというものを持ち出さずとも「朝ぼらけ」は環境として展開するという、この奇異、この原因なき根源と現象の一致のほうが、実朝の思考にはふさわしいように思う。「朝ぼらけ」ひとつ取ってさえ、仏という概念の弄びでは解明できない。そんなところにこそ、逆に、存在というものの底知れぬ可能性を見出し、最広義の救いを感知するような意識を、実朝の歌のもろもろは垣間見せているような気がする。世界はつねに仏や神を超えている。思えば常識というべきであろうが、実朝は強度の常識人として、宗教や社会という非常識に対峙したと見るべきであるように思う。
端的にいえば、人々の感想や意見、好悪、判断のすべてはもちろん、いかなる概念や観念に至るさえ、やはり妄想と呼ぶ以上のものではないと、はっきり断じ続けること、その一点においては迷わないこと。世の中のすべては、人々のこうした思いの無限の全方向への堆積や展開に過ぎない。思いの堆積や展開にはそれなりの構造も歴史もあり、面白みも味わいもあろう。しかし、束の間この地上に滞在してすぐにも去っていく定めの私に、それがいったい何だというのか。この世の思いは、この世の人々に任せる。忘れるな、自分よ、そもそも私は、この世の人でなどなかったではないか。
実朝よりは長く地球に滞在したとはいえ、三十七歳で早逝した藤原良経ならばこう歌うだろう。
おしなべて思ひしことのかずかずになほ色まさる秋の夕暮
思えば、この秋の夕暮れの前にまっとうに言葉を失うことこそ、もっとも滞在時間を無駄にしない逝き方の秘訣であった。この世の誰の一刻一刻も、この世からの立ち去りの瞬間にだけ向ってまっすぐに飛ぶ。はたして、誰がこの世の人だというのか。
良経の歌に呼応するように、実朝はこんなふうに歌っている。
流れゆく木の葉のよどむえにしあれば暮れての後も秋の久しき
暮れるのは、暮れるさだめにある者たちばかりである。「暮れての後も」久しい「秋」とは、あらゆる存在者たちの盛衰を支える世界の基盤を表わす。しかし、「久しき」と言っている以上はそれとて永遠ではない。「久し」と永遠とは異なる。終わりのある途方もない長さ、それを「久し」という。「久し」い「秋」もまた、いずれ暮れるのだ。
こんな歌を詠む実朝は、仏教思想の模範的な習得者とも見える。しかし、独特の概念体系を拵えて、それを地上権力と成す宗教家たちの身振りは彼には無縁で、そもそも宗教の力を借りずとも万人にとって常識であったはずのものを、ただ真率に、誰にも見覚えのある自然の光景そのものの内に語るだけのことだ。否応もなく政治権力の中枢に組み入れられた彼にしてみれば、地上権力のどうしようもない捏造ぶりなど自明のことだっただろう。仏、菩薩、慈悲、あほらしい。そんな表象を捏造して、いったいどれほどのことが語り得るのか。すぐにも立ち去るさだめの者にとって、地上のそのような表象とはなにか。観音が本当に天上へ導いてくれるとでもいうのか。ならば問う、仮に観音が現われたとして、その表象が真の観音である判別は誰がつけ得るのか。真我を真我と判じ得るものはなにか。仏を、仏以下の魂がどのように仏として判別し得るのか。仏と自称して無数に出現し得る邪霊や心理構造の妄想生産過程の偽りを、いかに識別するのか。そもそも、安寧を求める心的怠惰の反映でないとすれば、天上や涅槃とはなにか。地上への我々の来訪の理由とはなにか。それとも、来訪と呼ぶような移行は存在せず、すべての場は同一にして「此処」なのか。迷いから悟りに至るプロセスを語る物語は、どのような欲望から捏造されたものか。なぜ物質界の経験を強いられているように感じられるのか。生老病死をありのままに過ごしていって、なにが悪いのか。
すぐにも立ち去るさだめの者にとって、という視点は、そのまま、あらゆる地上の社会的営為に対する厳しい批評となるものだが、百花繚乱に見えながらも王朝から中世の和歌の数々は、概してこの点では視点を共有していたといえる。背後に仏教思想があったのは疑いないところだろうが、詩歌行為が本質的に反宗教行為であるのを思えば、一首一首に巧みな抵抗と否定が内在していたと見たほうがよい。
もちろん、詩歌は思想でもなく、概念をめぐる闘争の場でもない。詩歌行為の不敗のとりとめなさは、それらの狭域をおのずと溢れ出る。というより、そういうものをのみ詩歌行為と呼ぶのだ。
この地上滞在についての認識、とるべき態度、そうしたことがらについての結論など、はじめからすべて出ている。ただ、まだ此処にいる。此処を去るとわかっていながら。ふたたび、藤原良経の歌、
手にならす夏の扇と思へどもただ秋風のすみかなりけり
此処にいながら、あらゆる意味での此処に執着しない人々、執着しようにも不可能なのを知っている人々が、まさに「秋風のすみか」たる詩歌を、このように残していく。詩歌のすべてを、総じて「夏の扇」と観じるのも、思えば正確な美しい喩えではないか。それを「手にならす」ことを詩歌行為という、これもまた、正確この上ない認識と言ってよい。
◆この文章は次の雑誌にも掲載された。
・駿河昌樹文葉「トロワテ」94号(2009年9月)
・THE MAIL 277(5/September/2009 by Masaki SURUGA)
ベストセラーときもの(6) 立原正秋『薪能』
小説のなかで迎える夏も愉しい。作中人物がふさわしく装い、季節の空気のなかへ出かけていくさまの、あの心嬉しさ。
「昌子はかんたんな朝食をすますと、この夏こしらえたばかりでまだ手を通していない能登上布の麻の帯をしめ、日傘をさして九時すこしすぎに家をでた」。
立原正秋は日本美に通じ、季節の味わいを愛でたが、小説での着物の的確な扱いにも長けていた。こんな時節、こんな時にはこんな着物を。そういう想像力において、あやまたない作家だった。生来の感性と好みと経験とが幸福な結びつきをしたのだろう。着物が出てくる箇所はふいに詩のようになる。なんども読み返し、人物が肌に感じている触感を確かめたくなる。
よく知られているように、『薪能』は、狷介な血筋の旧家の従姉弟ふたりの滅びの物語である。戦死した父の娘、戦後殺された父の息子。ふたりともに母を離れ、姉弟のようにして、成人までを祖父の家に暮らす。能を愛し、一流の能楽師にも比肩しうるほどの舞いも披露した祖父、その心を土壌として育ち、かたや英文学者の妻、かたや若くして面打ちとなるが、時代にあわぬ血の絆は歳月とともに増し、鎌倉薪能の夕べ、「身のおきどころがない」のを苦しみ続けるふたりは、祖父の残した能楽堂での心中を選ぶに至る。
日本の古典文学のほとんどが滅びを見つめた文学であるのを思えば、日本美を追求した立原正秋が滅びの大家だったことに不思議はない。が、滅びというのが本来、味わいの作法のようなものであったのを忘れるべきではない。古来、文学者たちは、季節や生の味わいが、滅びのイメージを通じて深められるのを知っていた。滅びを思う時、生の瞬間は煌めき、現在というものが鮮烈に五感に沁みる。フィクションである小説、劇、はてはオペラなどで滅びがくりかえし扱われるのも、いま在ることを味わい尽くそうという人間の心のたくらみというべきである。滅びを好む作家ほど、深い悦楽家でもあるものだ。
昌子が夫の浮気現場で目撃するこのような情景はどうだろう。
「そこは三畳の控室で、壁に夫の夏背広がかけてあり、その下の衣桁かけに女物の絽の着物と単帯がかけてあった。昌子は珍しいものでもみるようにその絽の着物を眺めた(…)昌子は、奥の襖をあけた。そこに、明けはなした窓に青い簾をかけ、夏蒲団をかけた男と女が肩をならべてうつ伏せになり、煙草をのんでいた」。
昌子が被った心のひとつの滅びの瞬間というべき光景なのだが、いかにも適確な「絽の着物と単帯」ではないか。夫の愛人の着物でありながら、日本人みなに通底する美意識を湛えて、残酷にも美しくも、そこにある。「夏背広」や「明けはなした窓」の「青い簾」とのとりあわせも痛切で、この世に、日本人の誰もがいずれは置いて去っていく他ない日本の夏、その原形をみごとに定着した描写となっている。
いよいよ心中という時には、作者はふたりに、このように装わせている。
「昌子は着てきた水色の綸子縮緬のまま帯だけとり、俊太郎は壬生時信が着ていた藍の結城紬に着替えていた。二人とも、ひもで両足首と膝をあわせてしばった」。
小説の愉しさは、心中の場面でさえ、わが身のこととして思い描いてみることができるところにある。死に臨もうという時の綸子縮緬の肌ざわり、帯だけとった感触、水色で包まれた死後の自らの姿を想像してみるという、奇妙な愉しさ…… 男のほうの「藍の結城紬」、こちらのほうはどうだろう。まもなく来る死を迎えるにふさわしい着心地だろうか。
「入陽がさしこみ、後見柱と鏡板が燦爛と輝いた。やがて陽は二人の足もとに移り、まわりを茜色に染めあげた。このとき、昌子は俊太郎が打った最後の面孫次郎をつけ、俊太郎は、これもまた祖父の遺品である中将の面をつけた」。
誰もが死んでいく、ならば、死のこのような迎え方はどうか、と作者は誘っているようでもある。フィクションの力、その醍醐味をよく知っている立原正秋は、ほとんどの人間にとって自由のきかぬ死にざまというものを、美しく水色と藍とで包みあげ、後世の日本へ残してくれたというべきであろう。
◆この文章は、アシェット婦人画報社「美しいキモノ」二〇一〇年夏号にも掲載された。
◆次の雑誌にも掲載された。
・駿河昌樹文葉「トロワテ」100号(2010年8月)
・THE MAIL 330(17/August/2010 by Masaki SURUGA)
ベストセラーときもの(5) 三島由紀夫『春の雪』
いきなり慎みのない話題からはじめることはどうかと思われるが(これは他ならぬ三島由紀夫の『美徳のよろめき』の冒頭文そのもの。ちょっとお借りした)、これからはじめて抱こうという女性が、豪奢に「襲の色目に云う白藤の着物」で寸分の隙なく装っているような場合、どうしたらよいか。まして、男の側は未成年で童貞、草食系どころか、絶えず感情の矛盾や沸騰に内面を掻き乱されている徹底して面倒な夢想家タイプという場合は?
三島由紀夫の最後の最大の傑作、『豊饒の海』の第一巻をなす『春の雪』の主人公松枝清顕の場合がこれである。
相手は、宮家に嫁ぐことが決まった幼馴染の綾倉聡子。これまで姉のように清顕に接して来、親しみゆえの軽侮と愛情と誘惑とがない混ざった態度を、つねに彼にとってきた。
聡子の肩に手をかけたはいいが、清顕はかたくなな拒絶の手ごたえを感じとる。もっとも、この拒絶、じつは清顕の好むところで、「絶対の拒絶」や「絶対の不可能」、「禁忌」などはみな、彼の精神的快楽の源泉。拒絶されるがままに、「聡子の庇髪の正しい櫛目のなかには、香気にみちた漆黒の照りが、髪の根にまで届いて」いるのを見たり、「月夜の森へ迷い込むような心地」がしてしまったりと、はやくもひとり陶酔境に入らんばかりだ。
詳述する暇はないが、聡子との関係はいくらでもうまく進め得る機会があった。はじめて口づけして以来、聡子は清顕に素直に心を開き、そのまま順調にいけば結婚も可能だったはず。だが、「可能だった」という此処のところが清顕には気に入らない。「可能」や「順調」は、通俗な人間たちの有難がるもの。自分の恋愛や結婚が、そんな下等な概念に汚されてたまるものか。三島作品ではお馴染みの、優越願望と劣等感の嵐を抱える神経過敏な心の貴族なのである。
待ってましたとばかりの好ましい「拒絶」に出くわして、俄然奮い立ち、此処ぞと接吻しようとする清顕なのだが、聡子のほうは「自分の着物の襟にしっかりと唇を押しつけて動かなく」なってしまう。相撲でいえば、がっぷり四つか。このあたりから、着物を描く三島の筆が冴え冴えとしてくる。
「夏薊の縫取のある半襟の、きちんとした襟の合せ目は、肌のわずかな逆山形をのこして、神殿の扉のように正しく閉ざされ、胸高に〆めた冷たく固い丸帯の中央に、金の帯留を釘隠しの鋲のように光らせていた。しかし彼女の八つ口や袖口からは、肉の熱い微風がさまよい出ているのが感じられた」。
ともかく、帯を解かねば。が、「頑ななお太鼓が指に逆ら」う。と、そこへ「聡子の手」、「清顕の手の動きに強く抗しようとしながら微妙に」助けてくる。聡子のこの拒絶、協調、協同の悩ましさ。三島的エクスタシー湧出の基本的な布陣を整わせるべく「二人の指は帯のまわりで煩瑣にからみ合」っていくことに。「やがて帯止めが解かれると、帯は低い鳴音を走らせて急激に前へ弾けた。そのとき帯は、むしろ自分の力で動きだしたかのようだった。それは複雑な、収拾しようのない暴動の発端であり、着物のすべてが叛乱を起したのも同然で、清顕が聡子の胸もとを寛ろげようとあせるあいだ、ほうぼうで幾多の紐がきつくなったりゆるくなったりしていた。彼はあの小さく護られていた胸もとの白の逆山形が、今、目の前いっぱいの匂いやかな白をひろげるのを見た」。
こうしながら、聡子の裾がめでたく開かれるところまで来る。「友禅の長襦袢の裾は、紗綾形と亀甲の雲の上をとびめぐる鳳凰の、五色の尾の乱れを左右へはねのけて、幾重に包まれた聡子の腿を遠く窺わせた。しかし清顕は、まだ、まだ遠いと感じていた。まだかきわけて行かねばならぬ幾重の雲があった」。
まったくもってご苦労さまというところだが、甲斐あって、「ようやく、白い曙の一線のように見えそめた聡子の腿」に「清顕の体が近づ」くという仕儀に相成り候。なんだか、こちらまで儀式ばってきてしまう。
不可能性や拒絶や禁忌という概念を狂愛した三島にとって、着物はそれらを装うに格好の煽情的衣装だったらしい。他人事だと思うなかれ。これが、われら日本文化の核心をみごとに掴んでいるのは、もちろん言うまでもない。
◆この文章は、若干の修正を加えて、アシェット婦人画報社「美しいキモノ」二〇一〇年春号にも掲載された。
◆次の雑誌にも掲載された。
・駿河昌樹文葉「トロワテ」98号(2010年3月)
・THE MAIL 313(12/March/2010 by Masaki SURUGA)
ベストセラーときもの(4) 山崎豊子『花のれん』
最近あいついで映像化された『沈まぬ太陽』や『不毛地帯』、あれも面白いには違いないが、大阪商人の世界、ことに船場を扱った初期の作品の、えぐるような手だれの描き込みもさりながら、いつも漂っているこっくりぬっくりした味わいには格別のものがあって、あれに触れるたび、山崎豊子はすごい、と思う。明治から太平洋戦争前後の船場のこととなると、大阪の人でさえ、もう実感をもって思い描くことはできないそうだが、『暖簾』だの『ぼんち』だの『花のれん』だのから見えてくる船場は、人間の気持ちの密な、豊饒な生活空間であったように感じられる。
もちろん、心のほつれのあちこちを繕ってくれるぬくいうれしい茶のような大阪弁の妙とあいまって、ということもある。商売あがったりの呉服屋をやめて寄席(こや)を興す『花のれん』のヒロインの多加は、満員の客席にさらに客を詰め込む際、「どうもえらい狭うてすんまへん、お一人さん挟んであげておくれやす」と言う。「坐らせてやってくれと云うとむうっとするが、挟んでやってくれと云うと、不思議と少し横を空けてくれる」と作者は加えるが、大阪弁で言われているからこそでもあろう。江戸弁が滅ぼされた廃墟に掘立小屋のように作られた寒いさむい標準語は、とかく人工的でしゃっちょこばり、空虚にもわざとらしくもなりがちだが、大阪の言葉は無形文化財の域に達している。他の土地の人間であっても、あれを聞いたり読んだりしていると心の無数の襞が甦ってくる。こまかく、やわらかく、心の隙間にくっついてまんべんなく埋めていくような言葉。化学繊維ののっぺらした普段着に慣れた目を、手をかけてこまかく織られた絹物のきものにしばらく向けてみる時などにも、思えば、同じような心の繕いが起こる。
そう、きもの。きものといえば、初期の山崎作品での扱いというのは、浮き立ち過ぎず、しっかりと生活の中に織り込まれ、いかにも生きている、息づいているという感じがある。ごてごてと描写することはなく、要所をわきまえた提示のしかただが、決定的な瞬間をとらえる名手の写真のように読者の心に焼きついてくる。『花のれん』では、遊びにしか能のないダメ夫が花街で飲んだくれているのを引き取りにいくところから本格的なきものの描写が始まるが、「多加は、大島に、繻珍の袋帯を締め、畳表の履物をはいて出た」というさっぱりした一文が、このヒロインの意気も覚悟も、このあとの生き方さえも、十分に伝えてしまっている。
遊び人の夫の気質にぴったりあった寄席(こや)経営の仕事に邁進していく多加の、この後のさまざまなきもの姿を追っていくのが、まこと、『花のれん』では楽しい。仕事が軌道に乗ってきた頃も、「相変わらず地味な縞御召で丸髷の結い直しも自分でして、髪結い賃も惜しむほどであった」彼女だが、夫が生来の遊び癖からふらふらし始めるようになると、もっと気を惹こうとして「俄かに呉服屋時代の経験を生かして小紋の御召や結城などを上手に買い整え、家ですませていた丸髷も髪結いへ行って結い上げるように」したりする。「一にも二にも勤勉、努力、節約(しまつ)」という船場商人となった多加の、生活の転変のいちいちに、そのつどふさわしいきもの、着かたが添うてくる。
しかし、若い妾のところで夫が急死し、その弔いに臨む際の多加は、「ふさわしい」を超えた、決意のきものを選び取ることになる。嫁入りの際に無骨な父が持たせてくれた「真っ白な重味のある綸子に、墨色で陰紋をぬいた白い喪服」。吉本興業の創業者をモデルとしたという多加の運命が、近代日本の一大興行師のそれへと弾けていく、もっとも重要な山場となる瞬間である。
船場の商家には「夫に先だたれ、一生二夫に目見えぬ御寮人さんは、白い喪服を着てこころの証をたてるしきたり」があったという。手渡しながら、父は口ごもりぎみに、「お前が小学校へ入った年に死んだ母親が、もし将来、船場へ嫁ぐような縁があったら、何をおいても白の喪服だけは、持たしてやっておくなはれと、これだけ頼んで死によったもんや」と多加に伝えてもいる。
つまりは、亡き母の思い、父の思い、そして船場の御寮人さんたる女の心意気と「ど根性」までがこのきものには流れ込んでくるわけで、こうなると、きものももはや、たんなる日用品ではなく、しきたりの具でもなく、ファッションや趣味の対象でもなくなってしまう。多様な意味と歴史と思いの重層化された只ならぬ存在となるわけだが、こんなふうにきものを描き上げてしまった小説家というのも、当今、山崎豊子以外にはなかなか見当たらない。
◆この文章は、若干の修正を施した後、アシェット婦人画報社「美しいキモノ」二〇〇九年冬号にも掲載された。
◆次の雑誌にも掲載された。
・駿河昌樹文葉「トロワテ」96号(2009年11月)
・THE MAIL 295 (24/November/2009 by Masaki SURUGA)
ベストセラーときもの(3) 菊池寛『真珠夫人』
『真珠夫人』といえば、なにより、こんな姿が目に浮かぶ。
「若い男性たちに囲まれながら、彼らを軽く扱っている夫人の今日の姿は、またなく鮮やかだった。青磁色の洋装が、そのスラリとした長身に、ピッタリ合っていた。極楽鳥の翼で飾った帽子が、その漆のように匂う黒髪を掩うていた。大粒の真珠の頸飾りが、彼女自身の象徴のように、その白い滑らかな豊かな胸に、垂れ下っていた」。
二〇〇二年のフジテレビ系列で放映された昼ドラマがずいぶんと評判になったので、そちらのほうのイメージで記憶に留めている人が多いだろうが、元はといえば、菊池寛の一大通俗小説である。
大正九年(一九二〇年)の六月から年末にかけて大阪毎日新聞、東京日日新聞に連載された小説ということで、さぞかし古色蒼然、退屈なお話なのでは、と敬遠するむきもあるかもしれない。ところがどうして、登場人物たちは生き生きしているし、性格はどれもくっきりと濃く、現代でもあまり出会えないようなドラマティックな仕上がりで、とにかく柄が大きく、たっぷりこってりとゴージャスな味わいのある、まさに通俗小説の面目躍如たる作品なのである。骨太でぐいぐいと読者を引っ張っていくストーリーは、日本の小説というより、欧米のサービス精神旺盛なしっかりしたエンターティメント小説に近い。
ならば、登場人物たちの装いまでもがたっぷりと洋風かというと、さにあらず、意外なほどにきものの登場する場面が多い。時代を考えれば当然というべきかもしれないが、小説での描き方を見ると、菊池寛という作家はかなり、きものの美というものに敏感だったのではないかと思わされる。ピアノリサイタルに「淡彩に夏草を散らした薄葡萄色の、金紗縮緬の着物」で赴いたヒロインの瑠璃子が、「演奏が進むにつれて、彼女の膝の、夏草模様に、実物剥製の蝶が、群れ飛んでいる辺りを、そこに見えぬ鍵盤が、あるかのように、白い細い指先で、軽くしなやかに、打ち続けている」さまなど、きものの美に鈍感では描けない光景だろう。葬儀から帰って着替える瑠璃子には「深海色にぼかした模様の錦紗縮緬の着物に、黒と緑の飛燕模様の帯を締め」させたりする。十八、九の娘時代の彼女の装いに到っては、「目も醒むるような藤納戸色の着物の胸のあたりには、五色の色糸のかすみ模様の繍が鮮やかだった。そのぼかされた裾には、さくら草が一面に散り乱れていた。白地に孔雀を浮織にした唐織の帯には、帯止めの大きい真珠が光っていた」と描き出す。菊池寛という人、繊細な観察眼と美意識を持った、しゃれた心の持ち主だったというべきだろう。
きものには不倫や悪徳がよく似合うもので、『真珠夫人』でも、ヒロイン荘田瑠璃子のまわりには、不倫や悪徳の匂いがぷんぷんしている。たしかに、運命の悪戯から夫とせざるを得なくなった金の亡者荘田勝平に徹底的な報復を行い、さらにあらゆる男たちを手玉に取って弄び、いたぶり尽くし、男性優位社会と金銭至上主義社会に対する報復の権化となって、妖婦と呼ばれ、「男の血を吸う、美しき吸血魔」とも称される彼女は、近代日本小説では、なかなかお目にかかれないようなアンチヒロインの域に達している。
だが、不倫や悪徳を濃厚に匂わせながらも、そうした毒々しい雰囲気をこそ頑丈な鎧とし、じつはヒロインが、世にも稀な至上の純潔と貞節をみごと守り抜き切っていくというのが、この小説の核心である。瑠璃子は、金づくで自分を奪った夫などには一指さえ体を触れさせず、マリアージュ・ブラン(白い結婚。性関係のない結婚のこと)を貫いて、たったひとりの恋人への生涯の純愛を貫くのだ。
こういう彼女が、じつは、きものの下の白い肌襦袢の「胴のところに、軽く裏側から別に布を掩うて」恋人の写真を縫いつけ、つねに肌身放さぬようにしていた、と作品の終わりで明かされるあたり、時代というものの描き込みもさることながら、つねにどこかに、真情や魂を込めて着るべき衣類としてのきものという、菊池寛の思いや祈りのようなものが、見てとれる気がする。
◆この文章は次の雑誌にも掲載された。
・アシェット婦人画報社「美しいキモノ」二〇〇九年秋号
・駿河昌樹文葉「トロワテ」95号(2009年9月)
・THE MAIL 278( 8/September/2009 by Masaki SURUGA)
ベストセラーときもの(2) 高橋治『風の盆恋歌』
「では、なぜ別れなかったの。なぜ着物のために畳を拭くのが愛だと思う女を探さなかったの」
越中は八尾、〝おわら風の盆〟をいちやくブームにしたのが、高橋治の小説『風の盆恋歌』だったが、きもの好きの読者たちには、むしろ、ヒロインのこの発言あたりこそが気になるところだろう。
五十になる主人公の都築は、大新聞社の外報部長。長身、無口、やさしくて、笑うとすてきな皺が眼尻に寄る。パリ駐在も長く、はじめて八尾に現われる時も「ひと目で外国ものと知れるボストンバックを提げ」、「紺の縞模様のネクタイをしめ、淡いチャコール・グレイの背広の上衣を腕にかけて」という出で立ち。欧風の身だしなみがビシッと染み込んだ紳士で、いま演じさせるならどの男優がいいだろう、あの人かこの人か…と、ひとしきり、楽しい人選に時を費やしかねない。
ところがこの主人公、古い型の人間だと自認していて、大のきもの好き。敏腕弁護士の妻とのあいだに子もなく、経済的にも申し分ない生活から、「人がほしがる大抵のものは持っている」という。なんてステキなお方かしらと、きもの好きの女性がたは思うかもしれない。しかし、ご用心。この御人、「でも、家の中では着たことがない」とおっしゃるのだ。
家でもゆったりときもの暮らし、などといえば味わい深いようでも、それもまぁ、しっかりと掃除を行き届かせていれば、の話。畳もこまめに拭き掃除しておかないと、やけに値の張るモップをつけて歩きまわるのに等しい。「二日も着れば洗い張りに出さなきゃならないほど汚れる」と、われらが光の君、都築は嘆く。
大学時代から馴染みだった妻の志津江は、さっぱりした性格なうえ、陽気なもののほうが好きなたちで「影になった部分が少い女」、しかも外では敏腕弁護士と、けっこうイケてるはずなのだが、どうやらこのあたりに難アリか。妻が掃除好きでないぐらいのことは…となだめようにも、「あいつは亭主の着物を汚さないために畳を拭いて廻るなんてことは、女の屈辱だと思ってるのさ」と、不倫相手の、やはり大学時代からの馴染みののり子に吐露する始末。妻のことをそう言うか?、言ってしまうか?、不倫相手に?
ちょっと男を下げるかとも思ってしまうのだが、じつはここに、『風の盆恋歌』のいいところがある。ロマンスグレーに近づいていく年代のステキな紳士のお株を、しっかりと、どこかで下げておく。だって人間だもの、と相田みつをあたりの声が聞こえてきそうだが、さほど波風も立っていないはずの幸せな家庭を持ちながら、ちっちゃなちっちゃな不満を長年にわたって貯め込んで、けっこうわがまま勝手なロマンをこしらえ、ちゃっかり不倫の口実にまでしてしまう男なるものを、ちゃあんと捉えておりますね、作者は。哀切と夢幻、洗練と熱気にくわえ、不思議な静寂までが混在する〝おわら風の盆〟の臨場感を味わわせながら、世の女性たちにむけて、男なるものについてのこんな極秘情報まで漏洩してしまうなんて、高橋治は男の敵なのかもしれない。もちろん、都築のこんな情けないところを読んで、くすぐられるように苦笑するのでなければ、男の側も度量に欠ける。ひとのふり見て我がふり笑え。こうありたいものですね、お互い。我がふりを直すか、直さないかは、また、べつの話。
八尾に都築が借りた家にはじめて現われる時から、えり子は「やや黄ばんだ地に朱とも茶ともつかない井桁模様の琉球絣」と、なかなか渋い路線で攻めてくる。他の場面では「薩摩だという極薄の木綿の絣」に「素足に黒塗りの下駄」であったり、また、「藍一色の地に、極細の白い縞と縞の間隔だけで味わいを出す糸目絣」に「錆朱のつづれの帯」であったり。心得のない男には、微妙な美意識を測られかねないあたり、なかなかのプレッシャーにもなる装いだが、これを自然に受けとめ、たじろがないのは、やはり、都築の粋なところ。男にもやさしく、しっかりと自分の主人公を支えてやる作者の心の篤さがある。
白山のすぐ下の白峰村へ、牛首紬を一反、えり子の死装束のために織って貰いに行くところは、きもの好きにとっては圧巻だろう。二匹の蚕が作る玉繭を使って、手でよりをかけ、「天然のカールが出る」のを生かして独特の風合いの紬に仕立てていくという牛首紬が、読者の心の底にも、この小説の最後の肌ざわりを織りなしていく。「有名だったんですよ、着物の玄人の間では」という牛首紬を、夢まぼろしの風情さえある、清冽な印象の不倫愛の物語の大団円に持ってくるあたり、きものを愛してやまぬ作者の面目躍如たるところだ。
◆この文章は次の雑誌にも掲載された。
・アシェット婦人画報社「美しいキモノ」二〇〇九年夏号
・駿河昌樹文葉「トロワテ」93号(2009年7月)
・THE MAIL 273(5/July/2009 by Masaki SURUGA)
ベストセラーときもの(1) 渡辺淳一『失楽園』
そういえば『失楽園』の凛子、きものをすてきに着ている場面が何度かあった。ちょっと見直してみようかな、と久しぶりにハードカバーの上・下二冊をとり出した。上巻カバーには加山又造の『花』、下巻カバーにはやはり加山の『春宵』が華やかに火焔を上げている。手に持ってみるだけで、美への扉のノブに手をかけたような気持ちになる。本のカバーは、いわば、本のきもの。贅を凝らしたカバーが汚れるのは惜しい感じがするので、気を入れて読む際にはカバーを外す。まるで、きものを脱がすような…と、ときどき、思いはあらぬかたへ。だが、『失楽園』の場合にはピッタリの発想かもしれない。
日本の二〇世紀の終わり頃、世間はけっこう長いこと『失楽園』の余韻に浸っていた。朝っぱらからサラリーマン諸氏を元気にさせるような愛の描写いっぱいの朝刊連載の後、一九九七年に単行本化、さらに映画化、テレビドラマ化と来て、五十五歳の久木祥一郎と三十八歳の松原凛子の不倫純愛ってどうなのよ?的議論妄論は、日本の津々浦々まで広まった。『失楽園』さえ話題に出せば、これをめぐって必ず意見百出、酒席は盛り上がるし、イケナイ恋を実らせたい人にも、この際きっぱり別れたいという人にも役に立つというぐあいで、思えば便利なコミュニケーションの具だった。ジェームズ・キャメロンの映画『タイタニック』の公開も一九九七年。恋愛論には打ってつけの、良き一時代なのではあった。
凛子がきもの姿ではじめてお目見えするのは、書道の会の授賞式の場。「薄い紫地の付下げに、白い刺繍の帯を締め、髪は上にまとめ、真珠の髪飾りで留めている。近よると着物の模様は、胸元に小菊が描かれ、下に行くにつれて地色は濃くなり、裾に近く橘の花が咲き誇っている」。背後からは「二葉の扇面が描かれたお太鼓」が見えるという趣向。十月の最後の土曜日、赤坂のホテルでの、夕方からの式。奨励賞をもらう若手の女性書家としては、まずまずの選択なのでは?
凛子はこのきもの姿のまま、箱根の仙石原まで久木と車を飛ばすことになる。「霞が関ランプから高速に乗って渋谷から用賀へ向かう。その先は東名高速につながっていて、御殿場まで一直線である」というあたり、なにも描かれていないながら、じつは、この小説中でも最高度に魅力的なきもの姿が浮かんでくるところ。きものは自動車、いや、カーによく似合う。スピードにも。ちょっとミスマッチなような、メタリックなものとの出会い。渡辺淳一はわかっているなぁ、と思う。さすがに、脱がすことだけ考えているわけではないのだ。とはいえ、もちろん、仙石原のホテルではしっかりと。「着物を肩に掛けたまま、前かがみで」脱いでいく、そんな心くばりに久木がうっとりさせられる場面は、ぜひ再読されたし。
深い仲になって一年になろうとする正月には、凛子は「白地の着物に小豆色の帯を締め、手に毛皮のショールを持って」現われる。近づいてくるにつれ、「梅の花と枝がちりばめられている」のが見えるのも、熱海で昨年、梅を見た後ではじめて結ばれたことを思いださせ、心にくい。もちろん、このきものも脱がされるさだめ。「和服の女をあきらめさせるには、まず帯を崩すことだ」という貴重な指南とともに、『失楽園』の名場面のひとつが展開される。
しかし、『失楽園』の極めつけの名場面といえば、なんといっても、父の通夜の夜の、喪服の凛子だろう。「黒羽二重の喪服に黒帯を締めて片手に道行きコートを持ち、髪はうしろに巻き上げ、それに続く細い首が純白の襟元で締められている」。横浜のみなとみらいにある高層ホテル、そこの六十四階で待つ久木の前にこんな姿で現われ、眼下にひろがる夜景の光の渦のなかで… ここではなんと、きものは脱がされないのである。「着付けを崩さず、二人が結ばれる」とか、「姿を崩さず愛を受け入れる」とか。こんな表現からいろいろとご想像願いたいところだが、凛子の肩口からかすかに立つ線香の香や、高層ホテルの六十四階や、黒羽二重の喪服や、…こう来ると、つくづく、やはり渡辺淳一はわかっているなぁ、なのである。
◆この文章は次の雑誌にも掲載された。
・アシェット婦人画報社「美しいキモノ」二〇〇九年春号
・駿河昌樹文葉「トロワテ」91号(2008年12月)
・THE MAIL 238(25/February/2009 by Masaki SURUGA)
松島記
松島には二、三歳の頃に行き、小さめの船で島めぐりをした。
曾祖母がいっしょだった。
写真が何枚か残っていて、杖をついた和服の曾祖母と私が写っている。いつも先代歌右衛門のような髪型をしている人で、なぜ男のような髪をしているのかと私は訝っていた。
松島へはその後、中学の修学旅行でも行ったが、瑞巌寺に寄ったという記憶しかない。映像的な記憶がなく、瑞巌寺という名だけが残っている。
そのためか、私にとっての松島は、つまりは曾祖母との場所でしかない。
幼かった私が、曾祖母とふたりだけで島めぐりをしたはずはない。両親もいっしょだった。写真も、父が撮ったものが残っている。しかし、松島という名から浮き上がってくる思い出の中には、杖をついた曾祖母だけがはっきりと見えて、他はぼんやりしている。
父方にとっても母方にとっても、私は最初の孫だった。それを意識させられて育っていった私は、血縁のうちでもっとも私から歳の離れた長老である曾祖母を、他方の極として強く意識したらしい。曾祖母と私の年齢差のあいだに、両親も祖父母も叔父たちや叔母たちも、皆が収まってしまう。自分と曾祖母という両極のあいだに、生存する血縁者たちの皆が入ってしまうということに、子供なりの驚きと、ある種の任務のようなものを感じていた。片方の軸、片方の極を自分が担っている。むこう側は曽祖母が担ってくれている。約七十歳年上の長老が生存している中で、自分がまだ幼いままでいられるという安堵感があった。
ひさしぶりに松島へ行ったのは、出向いた遠刈田温泉に近い場所にあったからである。帰京する日、夕方までの時間が空いた。仙台市内を見てまわってもよいが、松島も懐かしかった。幼時、父の転勤で仙台に住んでいたので、どちらを見るにしても、多少はセンチメンタル・ジャーニー染みたものになる。
雨がちだったが、松島に行くことを選んだ。曽祖母の思い出もあったが、歌枕ということもあっただろう。日本三景のひとつである松島には、詩歌に関わる書籍ではつねづね出会い、わかり切ったつもりでいつも無感動に処しているが、自分にとっての松島とはなにかとなると、答えどころか、そのよすがとなる実体さえ意識の中には見い出せなかった。
どうせ、という思いはあった。有名な歌枕の地に心を高ぶらせる純心は、すでにない。観光地には飽いている。近くに来たから見ておく、見直しておく、それだけの思いだった。
松島海岸駅に着くとかなりの降りだったが、遊覧船のチケットをすぐに買って、迷いもなく乗船場に向かった。来たからには多少の雨でも島めぐりをするつもりだったし、雨の松島が悪かろうはずもない。昔の船とは比べものにならない、マリンイーグルという高速遊覧船に乗った。
船内に入ってしまえば、雨は気にならない。窓ガラスに雨筋が流れ、松島湾の風景も、遠くの島々の風景も少し歪んで見える。それがよかった。
走り始めてからは雨は小ぶりになり、やがて止んで、曇り空ではあるが、島めぐりにちょうどよい天候となった。
めぐる島々の風景は美しかった。
かたちのさまざま、潮に抉られたぐあい、隆起部分の層の色あい、あの島この島の遠近が、たくみに心を楽しませ、みごとに計算された巨大水園に遊ぶようである。
芭蕉が『おくのほそ道』に記したところを引くのは芸がないが、「島々の数を尽して、欹つ(そばだつ)ものは天をゆびさし、伏すものは波にはらばふ。或は二重にかさなり三重にたたみて、左にわかれ右につらなる。負へるあり抱けるあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹きたわめて、屈曲おのづから矯めたるがごとし。そのけしき窅然(えうぜん)として、美人の顔(かんばせ)を粧ふ(よそほふ)。ちはやぶる神の昔、大山祇(おほやまづみ)のなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、ことばを尽さむ」という描きようには共鳴せずにはおれない。
もっとも、松島を実際に見直せば、芭蕉のこのあたりの記述の、多少の高ぶり過ぎや表現上の怠惰、紋切り型への余りの譲歩は鼻につく。不遜な物言いとはわかっているが、詩文における時代や趣向、主義の違いは、尊敬する俳聖への従順をも崩さずにはおかない。
芭蕉は、先の箇所に続けて、雄島について記していくが、この島がまた、殊のほか素晴らしかった。
趣に富み、中を辿る小路のあちらこちら、見える海の遠景、近景、寄せる波の音の響きも美しく、残る石碑や墓石のどれも苔寂びて心惹く風情で、おそらく、日本の美観の中でも指折りの場所と言えるだろう。日本人の心にすっと落ちて来るような、岩や緑、水、明るさと影の妙が、心憎いまでに見事に配分されている。「造化の天工」が凝縮された場所である。
来て、ゆるゆると見てまわる、それだけで満ち足りる場所というものが本当にある。そういう場所を求めて人は旅をするのだろうと思うが、松島の雄島もそのひとつであった。完璧なのである。もう少しこうであったら、という欠損や過剰がない。
この島については、芭蕉は賛辞を弄せず、このように記すばかりである。
「雄島が磯は、地つづきて海に出たる島なり。雲居禅師の別室の跡、座禅石などあり。はた、松の木かげに世をいとふ人もまれまれ見えはべりて、落穂・松笠などうち煙りたる草の庵しづかに住みなし、いかなる人とは知られずながら、まづなつかしく立ち寄るほどに、月、海にうつりて、昼のながめまた改む。江上に帰りて宿を求むれば、窓をひらき二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ」。
現代ではもはや見られないさまで、雄島については、芭蕉の記述そのものが、島のひとつの魅力を担って、風景の多層化に一役買っていると言ってよい。水際まで降りて釣りに興じる裸の若者や、湾内に望まれるボートの白い船体などに重なって、いにしえの世捨て人たちの影が心象として蘇ってくる。
曽祖母とは、雄島にまで来ただろうか。
記憶はまったくないのだが、老女が杖をついて巡るには、やはり楽ではない場所であっただろう。島めぐりをして、その他はどのようにしたのか。瑞巌寺には詣でたか。五大堂や福浦島を廻ったか。
曽祖母が来なかったはずの雄島に来て、雨あがりの、やや蒸す空気の中をのんびり歩いて廻ることで、途切れて止まっていたなにかを、ふたたび始めるかのようにも思えた。あたかもお盆の時期で、もう滅多に思い出さなくなっていた人のことを、このように懐かしく思うというのも、偶然ではないようだった。
私はひとりではなく、妻を伴っていた。
雄島をめぐりながら、素晴らしい、素晴らしい、とくり返す私の気持ちを、妻はすっかり共有はせずに、渋すぎる、渋すぎる、と、いささか不満らしい様子だった。
それでもよかった。
松島の島めぐりをしながら、また、雄島の中をめぐりながら、曽祖母と妻とを、私ははじめて結んだように感じていた。
会わせた妻を、曽祖母は受け入れた、という感触があった。
◆芭蕉の引用は新潮日本古典集成『芭蕉文集』(富山奏校注、一九七八)による。
◆この文章は次の雑誌にも掲載された。
・駿河昌樹文葉「トロワテ」99号(2010年8月)。
・THE MAIL 329(16/August/2010 by Masaki SURUGA)。
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