2017年3月25日土曜日

リラダン再讃


   …そして、いまや、欠けているものはといえば、触れられるほどに
   はっきり現われ出たさまのヴェラその人だけであったので、
   それゆえに、彼女はそこにいなければならなかった…
                  ヴィリエ・ド・リラダン『ヴェラ』


ヴィリエ・ド・リラダンの諸作は未だに強力過ぎる放射線を四方に放っていて、大衆に媚びるのを習い性とした売文の現代文学など、その前では瞬時に蒸発霧散させられかねない。とはいえ、一読者の私としては、あの至上の短編群を純粋に楽しませてもらうだけで良しとしてきたので、テキストを外れた様々な逸話については、伯爵でありながら極貧の中で彫心鏤骨の創作を続けたという程度のことを頭の隅に留めてきただけだった。
だが、最近、ますます毒の薄まった人工甘味系透明無臭詩文ばかりが日本語を占めるようになってきた中で(全く、「希望」だの、「未来」だの、「癒し」だの、「憩い」だの、「安らぎ」だのと、砂糖菓子でもあるまいに…)、ホルヘ・ルイス・ボルヘスがこんな逸話を書き留めているのを偶々見直す機会を持ってみると、油の切れている上、すっかり埃をかぶった時代遅れの文藝仕草ながら、久しぶりに天才に対する儀式めいた尊崇の念を持ち出し直して、このマルタ騎士団団長の(最近、『騎士団長殺し』とかいう小説があったが、こちらは歴史上の本物…)末裔の名門中の名門貴族、ジャン・マリ・マチュー・フィリップ・オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン伯爵の作物への没入を、もう一度麗々しくやり直すべき時節かと思わされた。
ヴァグナーの親友だった彼は、この大音楽家との会話が楽しかったかと聞かれた際、「ふん、エトナ山と会話して楽しいものかね?」と答えたそうだが、一世を風靡したあの大作家アナトール・フランスが、リラダン家の先祖に関する情報を求めて、この気難しい先達を訪問した際の返答も楽しい。
「朝の十時というこんな白昼に、お殿様だの、有名な陸軍元帥だの、そんな連中について話せ、と言うのかね、あなたは?」。
シャンボール伯こと、ブルボン家のアンリ五世に招かれた際には、このシャンボール伯のために身を捧げた人物を伯自身が非難するのを聞き捨てならず、「畏れながら、陛下のご健康を祝し、乾杯させて戴きます。殿下が、陛下という称号にふさわしいことは疑う余地も御座いませんな。王たるものにふさわしく、見事、恩知らずで在らせられますからな」。
こんなリラダンの作の中では、誰もが推すように、若い絶世の美妻を失った主人公、ダトル伯爵が、極度にロマンティックな奇行の果てに、時間と無そのものに遭遇する様を描く『ヴェラ』の印象こそ最高のものとして大切にしてきた。比較的多くの読者に好まれやすい、わかりやすい(かのような)作品を熱愛するこうした態度は、我ながらいかにも通俗の極みで恥ずかしいものの、人間はロマンチストか愚物かに二分される、と厳しく分断を下していたリラダンを思えば、そう誤っているとも言えない対応かと思わされる。
もちろん、この作にしても、いま数行前に括弧で括ってわざわざ「(かのような)」と付記しておいたように、うっかりすると読み落としがちになる部分が満載で、読者たるこちら側のロマンティスムをうっかり発動させ自分勝手な陶酔気分に陥りでもすれば、たちまちのうちに靄の奥に姿をくらます難所だらけで構成されている。わかったと思い、楽しめたと思う読者の傲岸を、穏やかに、時には全くの無言のうちに、後でこっぴどく叱咤してくるのがリラダンの作品で、これは親友だった大詩人マラルメに相通じる、文藝専門家ならではの底知れぬ人の悪さと言えよう。
たとえば、ダトル伯爵の意識ばかりか、読者の意識を支配し切ることになるヴェラの死にざまはどうだったか。「悦楽の夫人、血の気を失ってゆく伴侶」と呼ばれて読者にはじめて紹介される彼女は、目立つ楽しい要素ばかりを気まぐれに拾って進むような慌てた読書では、うっかりと、清らかで儚げな佳人としてイメージ化されてしまいかねないが、実際にはそうではない。ダトル伯爵にしても、ロマンティックなだけの爽やかな澄んだ目をした、青白き青年なのではない。ヴェラは「これ以上ないほど深い歓喜の最中に失神し、極めつけの甘美な抱擁に身を委ねていたので、心臓はついに悦楽に耐え切れず、壊れてしまった」のであり、リラダンはあえて書き込まないものの、おそらく、いや、疑いなく、全裸でヴェラの上にわが身を重ねていたダトル伯爵は、このように彼女の昇天の様を凝視したのだった。
「彼女の唇はふいに死の赤紫色に染まった。言葉もなく微笑みながら、永訣の接吻を夫に与える暇もないくらいだった。喪服のヴェールのように長い彼女の睫毛は、たちまちのうちに、月夜さながらの瞳を覆い隠していった」。
リラダン的ロマンティストとは、物欲ばかりか、しっかりと肉欲の充溢の伴ったロマンティストであって、19世紀後半のブルジョワによって仕組まれた、すっかり毒を抜かれ無害化した、清純いっぽうの蝶よ花よの草食系のそれではない。そればかりか、時空のコントロールや、概念やら思念やら、果ては運命や神に至るまで、あらゆる抽象的なものの操縦までをも貪欲に欲するロマンティストであるのは、『未来のイヴ』を見るまでもない。
完全の域に達しつつある管理消費社会での、にこやかで温和なよき消費者と同義なだけの、現代の世間一般の意味での従順なるロマンティストぶりを、心からよほどきれいに洗い落してからでないと、なかなかリラダン的ロマンティスムは感知し切れないが、その最も重要な側面を掴みやすくするためには、通俗とも感じられかねないロマンティスムの漲る『ヴェラ』よりも、たとえば『希望による拷問』や『ツェ・イ・ラの冒険』あたりを読み直すほうがよいのかもしれない。
『希望による拷問』では、高利貸や貧者侮蔑で罪に問われたユダヤ人ラビ・アセール・アバルバネルが、一年以上も過酷な拷問にかけられている。外界と隔絶された悪臭の充満する地下牢に閉じ込められているが、そこはこのような様子である。
「牢の高所には格子窓が付いているので、壁に打込まれた二つの鉄輪の間に、血で黒ずんだ拷問台や、拷問用の鉄器を焼く炉、そして水甕とが、おぼろげに見える。不潔な寝藁の上に座っているのは、鎖で足を縛られ、首には鉄枷を嵌められ、ぼろ着にくるまっている、もはや年齢も定かでない、狂おしい眼つきの男である」。
 この男に、幸せなことに、ようやく火炙りの処刑の時が迫った。セゴビア第六ドミニコ会修道院長、スペイン第三宗教裁判所裁判長のペドロ・アルブエース・デスピーラが、翌日に執り行われる火刑の儀式、「アウト・ダ・フェ(宣告から処刑に到る儀式)」の手順を告げに来る。
「知っての通りですが、わが子よ、燠火というものは間を置いてしか燃え上がらないものです。《死》ぬまでには、少なくとも二時間(多くの場合は三時間)はかかるでしょう。生贄たちの顔と心臓とを傷めぬよう、水で濡らした凍えるような布切れを使いますからね。火刑に処せられる者はたったの四十三名です。いいですか、忘れてはいけません。あなたの順番は最後なのです。ですから、時間はたっぷりあります。その間に、神の御加護を祈りなさい。神に、《精霊》による火の洗礼を捧げることです。今夜のところは、《信仰の光》に縋りながら眠るがいいでしょう」
 そうして抱擁するのだが、このユダヤ人アハルバネルは、キリスト教徒らしい信仰の仕草を作中では見せるとはいえユダヤ人である以上、キリスト教の神に祈ることを、親切にも寛容極まりなくもこのように宗教裁判所裁判長が勧めるのは、もちろん、なかなかに程度の高い残酷さの、精神上の拷問でしかない。短編集『残酷物語』中のこの作品の残酷さは、もちろん、ここで終わりはしない。
 裁判長が去った後、アバルバネルは、捕吏が獄の扉の錠を閉め忘れたことに気づく。火刑を明日に控えた彼は、体力を喪失し切った覚束ない蠢き方によりながらも、もちろん、外への脱出を図る。巨大な地下牢の暗黒の中で、「丸天井からぶらさがっている小さなランプが、大気のくすんだ色を、ところどころ青く照らして」いるのだけを頼りにして這って行く。そうするうち、牢内の「霧の奥には自由への出口があるかもしれぬ」と彼は思い出す。希望を捨ててはならぬ、最後の希望なのだから、と思うようになる。
 途中、闇の中で、ぼそぼそとした口調ながら、議論しあっている宗教裁判所判事二人に出くわし、ひとりの判事には見つめられさえしてしまうのに、議論にすっかり意識が奪われているせいか、判事の眼球はアバルバネルを確かに捉えるものの、彼のことが見えない。このような信じがたい奇跡に力を与えられて、アバルバネルは「あと三十数歩しかない闇」に向かって急いで行く。
 ついに外に通じる扉に到るが、なんという幸運だろうか、「閂もない。錠もない。掛金しかない… 男は身を起こす。掛金は親指で難なく外れる。扉は静かに開いた」
 甘い空気、生気を蘇らせてくれる微風。おりしも星月夜、春の庭が広がり、近くには野があり、遙か彼方の山脈の青い稜線がくっきりと浮かび上がっている。あとは、レモンの林の中を香りと微風に包まれて、夜通し抜けて行きさえすればいい。アバルバネルは両腕を差し伸べ、天に眼をむけて、法悦に浸る。
と、その時、まるで神の化身のようなものに、愛情をこめた抱擁をされるのを彼は感じる。
 アバルバネルがいたのは、宗教裁判所裁判長デスピーラの腕の中なのだった。裁判長は、「目に大粒の涙を浮かべ、迷える子羊をやっとのことで見つけた羊飼いのように、ユダヤ男をじっと見つめている」。
 アバルバネルは、ここでようやく、いくつかの奇跡によって支えられたこれまでの逃避行が、宗教裁判所裁判長デスピーラたちによって演出された《希望》による拷問だったことに気づく。火刑を明日に控えた囚人に、最後の最後で、なおも「自由への出口があるかもしれぬ」と思わせ、希望を捨ててはならぬ、最後の希望なのだから、と、もう一度思わせ、渾身の力を揮わせるという拷問。しかも、自らも断食の行を行っている宗教裁判所裁判長デスピーラは、アバルバネルの耳にこう囁くのだ。
「一体、どうしたのですか、わが子よ。魂の救いが得られるかもしれない日の前夜に、…あなたは、私たちを見捨てるつもりだったのですか?」。
 十ページ程度にしかならない短編の中に畳み掛けられていくこの拷問の数々によって、いかにも巧みに、誰のものであれ本質的にどこまでも拷問でしかない人生なるものが、見事な寓話として刻み込まれ得ているという他はない。
 二十三歳の時、文藝上の師と仰ぐボードレールに手紙を出し、「日に十時間、全力を集中しても、ぼくには一ページしか書けないのです」とリラダンは伝えているが、五十歳で死去するまでのさほど長過ぎるともいえない時間を、彼は文字通り、彫心鏤骨の小説作りに費やしたのらしい。マルタ騎士団団長末裔の名門中の名門貴族、伯爵にして短躯、近寄れば直ちに切られんばかりのエスプリと皮肉、そうして紋章のごとき極貧のリラダンにおいては、生涯そのものが練りに練られた《拷問》であったはずだが、おそらく、自らの人生と内面の隅々に到るまでのしつらえや細工の数々のうちに発揮された、造物主の彫心鏤骨の創作熱と格別の愛情とを、彼はありありと、疑いようもなく感じ取りつつ生き抜いたことだろう。「魂の救い」へと向かう運命という名の拷問、ある物事や行為へ生涯の時空を蕩尽させてやまない故知れぬ情熱という、これもまた、もちろん「魂の救い」へと向かう、いや、「魂の救い」そのものかもしれない拷問。それらの緻密な関わりぐあいを身を以て触知していきながら、リラダンは、いかにも通好みの、重厚でいて軽みの絶えない至上の苦みで、読者の舌を、喉を、今後の幾度の転生にまで染みわたって焼き続けていくような、そんな神酒を醸造し続けた、と見直しておくべきなのだろう。