2014年12月30日火曜日

川端康成の『波千鳥』



 
『千羽鶴』の続編『波千鳥』をひさしぶりに読み返すと、静かな佇まいながら、冒頭もお終いも衝撃的だった。内容がではなく、文の置き方と姿とがである。
このようであったことは、すっかり忘れていた。あるいは、若い時期のがつがつした読書の一冊として、気づかれないまゝに済んでいってしまっていたのかもしれない。

冒頭はこんなふうに始まる。

「熱海駅に出迎えていた車が伊豆山を通り過ぎ、やがて海の方へ円を描くように下って行った。宿の庭へはいっていった。傾いた車の窓に、玄関の明りが近づいて来た。
 そこに待っていた番頭が、車の扉をあけながら、
『三谷さんで、いらっしゃいますね。』
『はい。』
と、ゆき子が小声で答えた。横づけになった車で、ゆき子の席が玄関に近かったからだが、今日婚礼したばかりの、三谷の姓で呼ばれるのは初めてだろう。
 少しためらって、やはりゆき子が先きにおりた。車のなかを振りかえるように、菊治を待った。
 菊治が靴を脱ぎかかると、番頭が言った。
『お茶室をお取りしてございます。栗本先生から、お電話をいただきまして。』
『はあ?』
 ふっと菊治は低い玄関に腰をおろした。女中があわてて座布団を持って走り寄った。」

 驚くべき文章である。『雪国』の冒頭が日本語として普通ではないとはよく言われ、静かながら、アルベール・カミュの『異邦人』なみに衝撃的な文章として有名だが、この『波千鳥』の冒頭も異様な文章である。駅から宿に向かう、滑り降りていくような車の動きをよく伝えているが、同じ内容を表現しようとする時、川端以外の者であったなら、このように書く勇気は持てないだろう。
「熱海駅で出迎えていた車は伊豆山を通り過ぎていった。やがて、円を描くように海の方へ下って行った。宿の庭へ入ると、傾いた車の窓に玄関の明かりが近づいて来た。」
このようにでも書いてしまうのではないか。
 少なくとも、「熱海駅で出迎えていた車」と書き、「熱海駅に出迎えていた車」という言い方は避けるだろう。避けてしまうだろう。「熱海駅に出迎えにいく」とは言っても、「熱海駅に出迎えていた車」とは言いづらい。
 川端のおそろしいのは、こうしたところで日本語を極限まで酷使するところである。曖昧とか破綻というのとは違う。日本語の口語をふつうに使う人ならだれもがわかること、わかっていなければならないことを前提として、表現の省略や合成をふんだんに行う。文語にして奇異に見えるようでも、恐れない。彼の一文は、見えないところで複数の口語の慣用表現に支えられており、海上に覗いた氷山の頂を飛び移っていくように文を編んでいく。

 終わり方も、まだいくらも続くべき話を途中で投げ出したような姿になっていて驚かされる。
主人公菊治が結婚してからの新居を、はじめて新婦の父と妹が訪ねてくる。ちょうどその日に、菊治の父と関わりの深かった茶の師匠栗本ちか子が来て、結婚の祝いの名目で菊治に贈った因縁の深い黒織部の茶碗のことを言う。菊治には、父の愛人だった太田夫人と、みずからも男女の仲になった過去があり、夫人の娘の文子とも男女関係を持った。栗本ちか子も父と関係を持っていたらしい。太田母娘とちか子と父と、そうして自分との関係の滓が、問題の茶器には染み込んでいる。それを承知の上で、ひととなりの清い新婦ゆき子のいる家に、ちか子は贈る。菊治はそれを売り払い、入った金をちか子に返す。ちか子はその金を受け取れないと言って返しに来るのだが、その際の玄関口でのやりとりが小説の終わりのシーンとなる。

「『どうしてこのお金をいただくんでございます?手切れ金とでもおっしゃるんですか。』
『じょうだんじゃない。僕が今ごろ、あんたに手切れ金など出すわけがないじゃありませんか。』
『そうでございましょうね。手切れ金といたしましても、あの織部を売って、それでいただくのは、妙なことでございますからね。』
『あれはあんたのお茶碗だから、売った金を送ったわけだ。』
『私はさしあげたんですよ。菊治さんが御所望でしたし、御結婚のよい記念だと思いましてね。私にはお父さまのお形見でしたが…。』
『僕にその金で売ってもらったと思えないかしら。』
『そら思えませんわ。いくら落ちぶれても、お父さまにいただいたものを、まさか菊治さんにお売りするなんて、この前もおことわりいたしましたでしょう。それに、道具屋へお売りになったんじゃございませんか。このお金を、どうしても受け取れとおっしゃるなら、私は道具屋から買いもどしてまいります。』
 菊治は道具屋へ売った金を送るなどと、正直に書かなければよかったと思った。
『まあ、お上がりになって…。横浜の父と妹とが来ているのですから。かまいませんわ。
 と、ゆき子がおだやかに言った。
『お父さまが…? まあ、そうでございますか。いいところで、お目にかからせていただきます。』
 ちか子は急にやわらかく肩を落すと、ひとりでうなずいた。」
 
 章の終わりならともかく、一編の小説の終わりとしては唐突な印象が強いだろう。新婚の菊治とゆき子にこのように栗本ちか子が絡まってくれば、何ごとか起こらないではいないのが予想される。その準備が整っていくところで、プツッと断ち切るような終わり方である。
 これには物理的といえるような理由があって、新潮文庫に付された郡司勝義の解題によれば、取材ノートの入った鞄の盗難が大きく影響しているらしい。大分県への取材旅行の際に取材ノートを鞄ごと紛失し、続編執筆が不可能になり、やむなく中絶となったとされてきた話だが、実際は、仕事場としていた東京の旅館で、ちょっと席を立った際に取材ノートの盗難に遭ったためという。昭和二十八年の出来事だが、馴染みの旅館の迷惑とならないように公表されなかった。川端の没後六年して、昭和五十三年に明らかにされた。
 とはいえ、『波千鳥』が書き続けられるにしても、太田文子がひとり旅を続けた大分県のことを長々と書かねばならないとは思えず、中心となる舞台は東京の新居での菊治とゆき子に移っているのだから、大分県についての取材ノートはなくても書き続けられたと思える。中断のような終わりを設けたのは、むしろ内容的な展開に深く関わることを理由としたものだろう。
 自殺した太田夫人やその娘文子との関係への贖罪の意識からか、妻となったゆき子と肉体的な関わりを持たぬまま、菊治は新婚生活を続けていくが、小説の中心はこの新婚夫婦の話になっていく。これが、一般的な小説のテーマになりうるのは明らかだが、川端にとっては、気乗りのしない、息苦しいテーマと映ったのではないか。菊治の贖罪や、心の再生とともに、健全な家庭が作られていくのなど、川端は追いたくなかっただろう。ひそやかなものであれ、背徳や崩壊や虚無への傾斜のないところに、川端の詩学は花開かない。自分にとっての詩の開かない物語を、苦労して書き継ぐわけもないのである。
たとえ、ゆき子との肉体関係の拒絶を菊治に維持させながら、その点で異常な夫婦生活を描き得たとしても、太田母娘との過去ですでに濃い背徳の色を加えてある『千羽鶴』と『波千鳥』の世界においては、あまり鮮やかな異常性ともならない。美しい虚無感をさらに深め得るような物語を興すには、太田文子をどうしても小説の中心に呼び戻し、菊治を飛び越えて、妻のゆき子との同性愛を発生させるぐらいの思い切った物語的飛躍が必要とされるだろう。
しかし、『千羽鶴』を経て、第四章まで書き継いできた『波千鳥』の積み上げと滑走ぐあいでは、そこまでの飛翔はできないと感じていたのではないか。小説は物語や語りの物理学によるのであり、人間関係やエピソードの組み合わせや堆積ぐあいからしか、物語のその後の飛翔距離や高度は導き出され得ない。数章後に失速するのが目に見えているのならば、思い切って途中で放棄するような終わらせ方をしたほうが美しいと思ったのだろう。
男女の愛欲は、それが一対一の男女によって醸成されるのでなく、つねに複数の男女の肉体的な、あるいは観念的な絡み合いのうちに起こり続け、本来的に一個人の主体を弄び、いたぶるものであるゆえに、(いうまでもなく、たとえば、男児が初めて全身を以て経験する膣は母親のそれであり、彼の恋人たちや妻が愛撫する彼の肌は、つねに、あらかじめ彼の母の膣壁によって奪われた肌であるとか、正妻や正夫に落ち着いていく男女の意識内部では、それ以前の無数の他の異性たちとの性愛体験の混泥が煮えたち続け、無限の比較が継続しているとか、そのような意識内の運動性のうちにのみ、全生涯の愛欲経験は構成されていく他ない)、あらゆる人間関係の気味の悪さのうちでも、もちろん、もっとも気味の悪いものであり、川端作品の魅力は、そこのおぞましさに、つかのまの白雪が交じるようなコントラストの表出にこそある。
肉体関係のない結婚を菊治やゆき子に続けさせてみる程度では、交る白雪の鮮やかさの質が落ちる。川端は、あるいは、菊治ではもう、役を担いきれないと思ったのではないか。妻のゆき子にしても、大分県の温泉を次々と経巡って、菊治との関わりを洗い落そうとする文子にしても、登場人物としての菊治のひ弱さを補うほどの働きをしてくれそうにないと思ったのではないか。
作品や、登場人物たちへの冷酷こそが、なにより、『波千鳥』においては美しい、と感じさせられる。こういう冷酷の、精緻な冷たさに接することでのみ生き返るものが、われわれの心の襞にはあるからである。




2014年12月27日土曜日

街灯が灯ってくるのが見えると



 筑摩現代文学大系の川端康成集の月報には、文芸評論家進藤純考氏の「川端さんの客間」という短い文章が載っている。新潮社での編集者時代、原稿を貰いにたびたび通ったという鎌倉の川端宅の印象が記されている。
ひさしぶりに読み直し、大学の一年次で出席した氏の授業の時間が蘇った。大学という空間に初めて接し、馴染んでいく、そんな一年間の季節の移ろいが鮮やかに思い出され、古い青春小説を繙くようだった。
氏の授業は、教える側も学ぶ側も楽なもので、七面倒くさい文学理論のレジュメを詰め込もうとするようなものとは違った。毎週、当番の学生が好きな作家や作品について発表する。それを聞いてから、氏の論評や感想があり、他の学生たちとの質疑応答があり、おのずと歓談に流れていくというふうで、講義というより、どこかの文学サークルの定時会のようなものだった。
これは、じつは教員の負担を軽くする打ってつけの方法で、しかも、学生たちには、なにか実のあることをやったかのような印象を与えられる。逃げとも、誤魔化しとも言えなくもない授業のしかただが、文学の場合はこれでよかった。理屈や知識だけの議論では文学にならないし、ましてや教員からの一方向の語りだけでは、文学からは遠ざかる。世間話や痴話も含め、喜怒哀楽あわせての、しかし流されないで正気に踏み止まり続けようとする意識の繋留の試みを文学というのだから、進藤氏は勘どころはちゃんと押さえていたといえる。ホメロスやアリストテレス以来のレトリックの変遷や文学史を簡便に辿っていくような講義は、一見するとまじめにももっともらしくも映るが、文学という生物の死骸を遠巻きに冷たく解剖してみるようなもので、文学解剖学とか文学死体処理法とでも呼ぶほうがふさわしい。
自分の当番がまわってきた時、私は、高校時代に愛読していたサン=テグジュペリについて話した。堀口大学の訳で主要作品は読み込んでおり、手持ちの新潮文庫はさんざん線を引かれて、ふにゃふにゃになっていた。
『星の王子様』で有名なこの作家は、ヨーロッパと南米やアフリカを結ぶ郵便飛行機の飛行士として長く働いた経歴を持つ。第二次大戦中には、ナチスドイツと戦うために、すでに年齢的に無理があったにもかかわらず戦闘機乗りとして志願し、地中海で撃墜された。作家としての本領は、体験にもとづく『人間の土地』や『戦う操縦士』などのエッセーのほうにこそ発揮されている。地上にいれば様々な面倒事に巻き込まれる他ない人間も、いったん空に上って雲上の長時間の飛行に入ってしまえば、人界を超越した地球の美しくも非情な様相に直面し続け、生の別様のあり方を思い知る。そうした位相で積み重ねられた経験から培われた超越的な世界観や人生観が、サン=テグジュペリの魅力でもあれば真骨頂でもあってやわらかい叙情味と高原の雰囲気のような澄明さや清潔感が英雄主義に結びつき、今なお、世界的に青年層に人気が高い。
フランス文学科に入ったものの、まだ初級文法もろくに身についていない時だったので、フランス語原文など参考にすべくもなかったが、進藤氏の文学の授業は一般教養科目であり、フランス文学の授業ではなかったので、翻訳を下敷きにしての発表で差支えはなかった。
知り尽くしていたテーマであったのが幸いしてか、発表の出来はよかったらしく、話し終わったところで、進藤氏が拍手をしてくれた。一年の授業を通じて、先生からの拍手を受けた学生など他にひとりもいなかったので、いま思い返しても、これは異例のことだった。授業枠の中での発表に過ぎないとはいえ、大学というところで、単なる先生ではなく、本物の文学者たちとの日常的なつき合いの中に生きている評論家から讃辞を受けたことは嬉しかった。有名な作家たちと顔見知りであり、特に第三の新人たちと昵懇で、「この前の日曜日、吉行(淳之介)が…」とか、「遠藤(周作)がいつも言っていることですが…」とか、「三浦(朱門)がこんなことを言っていた…」とかいった話がすぐ口をついて出る進藤氏が、自分の話のどこを気に入ってくれたのかと訝しくもあったが、学校という場所に巣食っているいわゆる「先生」なるものとは違う「文学者」という種族の一端に触れた気持ちもあった。
進藤氏は1999年に亡くなったらしいが、便利になったもので、いまはネットで氏の生涯の概要も辿れる。芥川龍之介、田山花袋、横光利一、川端康成らが寄稿した『文芸日本』の創刊者を父に持っていたことも知らなかったし、女優の早川十志子を母に持っていたことも知らなかった。東京帝大から学徒出陣で横須賀の海軍に行き、戦後に新潮社に入って川端康成、志賀直哉、石原慎太郎らを担当したことや、いったん会社を退いて大学院で修士号を取ってから復職したこと、カミュ論を書いたことも知らなかった。
亡くなる十年ほど前には、67歳で初の小説を完成させたらしい。編集者や評論家をしながら、特に「一二会」で親交を深めた多くの小説家たちを見つつ、やはり、いつかは小説を…との思いがあったのか。そういえば、進藤氏よりも前に、評論家の中村光夫も、歳長けてからは小説を書いていた。
エルヴェ・ギベールという、フーコーの愛人でもあったという話のある、エイズで死んだフランスの同性愛作家が、「小説という夢…」と書いたことがある。言葉や文に惹かれるあらゆる者たちが、素質としてはむしろ詩歌や演劇や批評のほうにこそ向いている場合でさえ、誰彼となしに「小説」のほうへ惹かれていき、いつかは小説を…と思ってしまう。そんな近代の文学者たちの宿命を端的に表現した言葉で、あの大批評家ロラン・バルトでさえ、小説のほうへ…と考えていたのを思えば、感慨深い。編集者として、また評論家として立派な仕事をしていた進藤氏もまた、自らの手で小説を…という夢に惹かれていたことになるのだろう。
もちろん、小説の現場というのは、作業中も、宴のあとも、過酷で非情なものである。出版社の商売の都合や仲間内での盛り上げ合いで、出版後、しばらくは話題となる小説作品も、時代がひとたび移れば、廃墟となったホテルや宿屋のような姿を晒すことが多い。進藤氏の親しい友人だった作家たち、遠藤周作、安岡章太郎、三浦朱門、庄野潤三、吉行淳之介、島尾敏雄、小島信夫、五味康祐、近藤啓太郎、日野啓三、奥野健男、村松剛などにしても、あれほど有名で、毎月のように作品や対談などが方々の雑誌に載っていたというのに、いまでは、小説好きだという青年の殆どが読んでいないし、名も知らない場合がある。どんな作家が好きなの?と聞けば、東野圭吾や石田衣良としか返ってこない。村上春樹でさえすでに古典で、難しく、扱われている団塊の世代そのものがもう老人世代でもあってみれば、若者には近づきがたい。一時期流行った京極夏彦の名も聞かなければ、獄本野ばらや新井素子の名さえ聞かれない。本は売っていても、今の若者はもう引っかかってこない。何十年か経った後、けっきょく、はるかに寡作だった俳人や歌人の作品ほどにも残らない小説家たちが殆どということになる。
小説というもののはかなさ、恐ろしさ、と、ひとことで済ましてしまっていいのだろうか。
済ましてしまったほうが、いいのか。
小説よりはるかにはやく廃れてしまったかのような感のある「文学」なるものは、どうだろうか。
進藤氏はある日の授業で、やはり友人の作家の誰か、三浦朱門あたりだったように覚えているが、その作家を例に引いて、こんなことを言った。
「急いで仕上げなければいけない作品や文章がいくつもある。締切が迫っている。ところが夕方になって、街灯が灯ってくるのが窓から見えると、気持ちが落ち着かなくなってくる。さびしいような、うきうきするような感じになってくる。飲み屋街の灯が脳裏にちらちらし出す。机に向かって、どんどん書かなければいけない。しかし、紅灯が心に揺れる。夜の街に出て行きたくてたまらなくなる。飲みたいなあ、飲み屋街をふらつきたいなあ。いや、集中して書かなければいけない。でも出て行きたい。居ても立ってもいられなくなってくる。書かなければいけない。飲みたい。出て行きたい。…で、出て行ってしまう、っていうんですね。紅灯の巷をさまよい、飲み屋に入ってしまう。飲みながら、また飲みに出てきてしまった、俺はなんて情けないんだ。そう思って飲んでいる。あの小説もこの小説も仕上げないといけない。あの文章はもう締切だ。こんなところで飲んでいるわけにいかない。…こんなふうに思いながら、それでもね、また朝方まで飲んでいる、と言うんです」
 そうして進藤氏は、仕事を山ほど抱えた作家のこの気持ち、街灯が灯ってくるのが見えると落ち着かなくなり、さびしいような、うきうきするような感じになって、居ても立ってもいられなくなってくるというのが人間であり、文学というものだ、というようなことを言った。
「この気持ちがわからないと、文学なんてわからないんですね」
 さらに続けて、ここでやっぱり、誘惑に負けて紅灯の巷にさまよい出ていってしまうというのが、文学の人間なんです、文学者なんです、と言ったようにも記憶しているが、これは定かではない。
私の勝手な思い込みかもしれない。