2012年5月4日金曜日

エデンの爪



 春先、足の親指の爪が浮いて剥がれそうになっているのに気づいた。下には薄い別の爪が出てきていて、肌や肉が露出しているということはない。足の爪はときどき切るから、つねにではなくても定期的には見ているはずなのに、それまで気づかないでいた。


 それ以前に、爪の内側に血の溜まったような、黄色く変色したような部分が散見されていた記憶はある。足を踏まれたり、爪先をぶつけたり、ドアの下で軽く足の先を挟んだりということは時々あるし、そうでなくても、先のきつい靴を履き続けていたりすると、爪が歪んだり、爪の内側に変色が起こることはあるので、そんなものではないかと思っていた。
 しかし、足の大きめの爪全体が浮いて、半分ほどはもう剥がれており、油で揚げた空豆の皮が硬くなって、実から浮いて残っているような状態は初めてのことで、よほどの重圧が足の先にかかったか、それとも病気や体調不良の結果が爪に出たかと思えた。


 しばらくはプロテクターのように見なして、浮き上がった大きな古い爪をそのままにしておいたが、爪にはカビや水虫などの病気もあると聞いて、浮いた部分を切ってもっと見て確かめてみようと考えた。
 数十年以上前に買った、強力で優秀な中国製の小さな折り畳みバサミで、少しずつ切れ目を入れ、怪我することなく、無事に、浮いた古い爪を切り取った。不用の汚れた爪とはいえ、足の親指のものは大きく、切り外してしまうのはもったいないようにも思える。しかし、残しておいても役には立たないし、切ったところで親指が痛むわけでもないので、そろそろ取り除くべき頃合いだと考え直した。
 下の若い爪が現われたが、いくらか左右では状態が異なっているものの、ともに、三段階ぐらいに分れて横に折れ目が入っている。折れているわけではないが、発生時点に強い力が数度に分けて加えられ、それが横溝となって残っている。足の爪が伸びるのには長い時間を要し、全部が生えかわるには8カ月から1年ぐらいかかるようだが、どうやら数カ月おきに強い力がかかって、爪の生育に断層を刻んだように見える。足指の肉や、まだかたちを成していなかった新しい爪は、それに素直に対応して、されるがままに、まるで肉をきつく紐で縛ったような跡を受け入れて残したが、すでに表面を蔽っていた元の硬い爪は、そうした力による変形を受け入れられないので、肉から剥がれる方向に進んだのだろう。


 しかし、いったい何が起こったのだろう。これほどの変形を足の親指に与えるような出来事があっただろうか。
そう考えてみたが、どうにも思い出せない。足に大変な怪我をした覚えはないし、重い物を爪先に落とした記憶もない。爪先をテーブルの角にぶつけるようなことはたまにするが、両方の足を等しくぶつけることはない。少し先の細い靴や、足先のかたちに合わない靴を穿き続けてきたためということは十分ありうるが、これほどの影響がでるほどつらい靴は、この一年、穿いてはいない。
運動のためにウォーキングやジョギングをやってはいるが、その際の靴も足先に負担がかかるようなものではない。もう何年も前からやっているので、もっと早くにこうした変化が出ていないとおかしくもある。


こう考えながら、これでもない、あれでもない、と数え上げていった末、大地震後の福島原発の放射能被曝のことが思い浮かんだ。
当時、なんの心配もないと政府は喧伝し続けたが、315日には大変な量の放射性物質が東京にも飛来していたのが後でわかった。それ以外の日でもかなりの放射性物質が飛び続けていたし、東京も含め関東地方の水道水も被曝、農水産物も広範囲に被曝したのだから、この領域に居住している人体が被曝していないと考えるほうがおかしい。今でも放射性物質は日本どころか、世界中に拡散し続けているという見方もあり、新たな放射性物質の飛来がなければ感知されないはずの線量も観測され続けている。
昨年の3月時点での被爆、その後の比較的大がかりだった時の被爆が、ひょっとしたら足の爪にこれだけのはっきりした痕跡を残したのではないか、と思われた。疲れやすくなるといったような多少の異常は感じたものの、さほどはっきりした症状もなく生き伸びた一年だったが、爪にはこのように現われていたのではないか…
いかにもありそうなことだとは思ったが、しかし、それならどうして親指だけに出たのか、他の指には全く出ず、手の指にもなんの痕跡も出ないのか、そんな疑問がすぐに浮かぶ。自分の身体での、身をもっての被曝の痕跡といったものが、たとえ軽微であれ、どこかに出てもよさそうなものだとは思うものの、足の親指だけにひどい症状が出るというのは、やはり理屈に合わな過ぎる。


そうなると、他にはなにがありうるだろう、と考え続けるうち、ようやく思い当たったのが、死んだ友の残した厖大な荷物の整理である。
このことの顛末は複雑で、語り出すと長くなるので簡単に言うが、役所関係から公共料金関係、不動産関係も含め、親族関係や家財処分まで、死んだ友のあらゆる始末を、2010年から2011年まで10カ月かけて背負い続けたという、個人的にはちょっとした大事件だった。友が亡くなるまでは病気治療のためにかかり切りになっていたので、それも含めれば2年間に及ぶ異常事態だった。こちらには自分の仕事も生活もあり、しかも、最も忙しい時期に当たっていて、個人生活の手を抜くわけには一切いかなかったので、休息できる時間は皆無になり、日々の睡眠時間は3時間も取れれば良いほうだった。外国人であった友には兄弟も甥も姪もたくさんあったが、誰ひとり助けには来なかったし、葬儀にも来ず、一切の支払いにも応じなかったため、こちらの精神的なストレスは極限まで達し続けた。
この一連の事態のうちの、荷物の仕分け、処分、整理などの肉体労働の作業が、足の親指にあれだけの深い痕跡を残したのだろうと考え到ったわけだった。
故人の住居に、いったい何十日赴いたのかわからない。最大限数えれば300日ほど行ったという計算も可能だが、もちろん、それほどたくさんは行っていない。しかし、少なく見ても150日は赴いたことになるだろう。たいていの場合にはたった一人で、厖大な書籍の整理や、レターパッド、封筒、絵ハガキ、保険や年金支払い書類、衣類、寝具、家具、電化製品、洗剤やたくさんの生活小物など、ホームセンターや書店や文具店に行けば目につくありとあらゆるものの仕分けや整理・処分に、毎回、数時間はかけてかかりきりになったものだった。仕事から帰ってから行ったり、家に帰る前にカバンを持ったまま寄ったりする。本来ならば身体を休ませるべき土日は、朝や昼から出かけて、整理にかかる。


どうしてそんなに時間がかかったのか、と訝る人がいる。そういう人たちは皆、故人の荷物の整理に時間がかかる理由を、あらためて懇切丁寧に説明してやるほどの相手ではないので、「確かに、回収業者を呼んだりして、もっと早く進めることはできたでしょうね…」とおざなりの返答をして済ますことが多いし、そうする術も身につけるに到ったが、単に知り合いが死んだのではなく、自分の人生そのものだったような人が死んだ場合の整理をたった一人でしなければならなくなる経験を、どうぞ、遠くないうちにあなたさまもなさいますように、と心の中で丁寧につよく念じたりする。そうして、少しでもはやく、その人の配偶者や、子供たち、孫たち、溺愛しているペットなどが病気で苦悶し続けた上で死に到ったり、なんら死の準備さえしないで急死するという事態が起こり、そうして、その日のうちにしなければならない死亡届をめぐる処置にあたふた駆けまわったり、病院から無情に催促される支払いに慌てたり、葬儀会社が押し付けて来る段取りとやり合ったり、一見親切なようで、その実、好き勝手なことを言って掻きまわしてくる周囲の人々と応対したり、なにをやってもやらなくても三度の飯より批判がすきな世間の目を大波のごとくにかぶり続けたり、…と、そんな経験を一からフルコースで味わったらいい、そうしてからもう一度、「どうしてそんなに時間がかかったのか…」と聞きにおいでくださいな、と、やはり考えるのである。


自分の生活や命を縮めるようにして故人の荷物整理を進めていたあの頃、物を箱詰めしたり、また出したり、箱を押し入れに入れたり、積み上げたりという作業をしていた時に、足の爪先にはいつも、たいへんな重圧がかかっていた。特に、箱詰めや腰を下ろしての荷物の整理の際だろう。ペタリと腰を下ろして座り、ゆっくりと小物を整理することも多かったが、たいていの場合には、すぐに立ったり姿勢を変えたりしやすいように、腰を下ろして爪先だけで身体を支え、床の物を移動させたり箱詰めしたりする。思い出してみれば、ずいぶん足指の爪先に重さがかかっているな、爪のあたりに重みの皺寄せが来ているな、と思いながら作業を続けていたことが多かった。作業を終えた後には足の裏が引き攣れるようなことも多く、翌日には違和感が足の平に残っていることもあった。
ああ、やはり、あれだったのか…と、終わってからまだ一年も経たない整理の日々を、古い爪を剥がしながら思った。新しい若い爪にも、拷問の後のような数段の刻印がくっきりとついているのだから、自分の身体があの不条理な苦しみの日々を忘れ去って生まれ変わったなどとは思えない。しかし、身体は変わっていこうとしている。すべて過ぎていき、すべて終わっていき、すべて変わっていこうとする…


自然に剥がれた古い爪が、あの頃の苦しみと不条理を物語っているなどとは思うまい。足の指の爪がすっかり生えかわるのに一年かかるのだとすれば、古い爪はむしろ、友がまだ生きていて、闘病のさなかにあった頃の痕跡そのものであるはずだろう。友といっしょに食べたり飲んだりしたものが足の爪先にも流れ、爪となって定着したはずだ。友の生前の時間が、そこには物化している。下に生えてきている新しい爪のほうこそ、友の死後のおぞましい長い時間を表わしている。否定され、剥ぎとられ、忘れさられるべきは、むしろ、この新たな爪のほうではないか…
若い新たな爪を、むりに引き剥がし、血みどろの足で現在時の地面を踏むことから人生をたどり直そうという思いが、ふと起こる…
むろん、そんなことはしないだろうが、しかし、剥がれた古い爪は、しばらく保存しておくのがよいかもしれないと思った。それは、いまの自分の身体のどこよりも、みずからのエデンを記憶している。時間が過ぎ続けていき、世界や人生のシーンが変わり続けていくことなど当たり前のことだが、それを境に世界が一変してしまうという変化点というものはある。二度と元には戻れず、ついさっきまで続いてきていたと見えたものが、もうすっかり消滅してしまうという特異点。
自分の死までは、そんな特異点以前を残す遺物として、剥がれた爪を手元に置いておいてもいいかもしれないだろう。他者としてあの頃までの自分を見るためであり、さらには、他者として、今の自分をもとらえるためである。