2011年12月11日日曜日

布村浩一氏の『七月』



 布村浩一氏から同人誌《ひょうたん》45*が届き、氏の『七月』を読んだ。岩崎宗治氏のTS・エリオット『四つの四重奏』新訳(岩波文庫)とともに、今年、私の呼んだ詩歌の中で最良と思われる一編であり、年の暮れにさしかかってこれを読みえたことを嬉しく思った。短い作なので、全編を引用する。

モスバーガー
火曜日
三時半
部屋から歩いて五分
駅のそばの店
駅の階段をおりてくる人たちがみえる
  夏
風景の中に光りがある
風景の中に熱い光りがある
ふるえる旗
ふるえる葉
七月の真ん中
雲ひとつない
  空
いっぱいある

 はじめの三行はぶっきらぼうに見えるが、ここで調整される感情の韻律には無駄がなく、快い。四行目、五行目と調整は続き、同時に場面描写も進めて、読み手はすでに詩でしかない世界に入り込む。この五行で達成された詩境に、今年も量産されたはずの多くの詩行がどれほど致命的に無縁であったかを思う。
 六行目から終わりまでも、緩みがなく、媚びがない。媚びのない言語配列を詩と呼ぶ。自分の書きたいものを書きたいように並べる、それを詩作という。世上名高い詩歌がああしているから、抒情はこうあるべきだから、あるいは詩的反抗はこのようであったから そういう配慮をどこまで落とせるかで詩境は決まる。新奇を狙っても伝統に縋っても詩は死ぬ。私が布村氏に見るのは、こうした詩の陥穽に対する奇跡的な突破の連続だ。
この『七月』では、九行目「風景の中に熱い光りがある」の「熱い」はどんなものか、と思わないでもない。陥穽に落ちそうな、落ちてしまったような。しかし、前の八行目「風景の中に光りがある」を受けて、仮に「風景の中に熱がある」などとしてしまった場合と比較すれば、ここで氏が守ったもの、踏み堪えたものがわかる。氏がどのような「詩」を避けるか、どのような「詩」の振りを避けてきたか、よくわかる。
喫茶店からの風景やそこでの思念を氏がながく詩にしてきたのを知る者には、「モスバーガー」とともに詩を拓く『七月』の冒頭は感慨深い。普通なら「住まい」とか「アパート」とか「マンション」と言いそうなところで「部屋」という単語を使い、「部屋から歩いて五分」と書く爽やかさにも、いつもながらに私は多くの救いを与えられる。しかし、なにより、絶唱というべき『七月』で再三くりかえし読まれ銘記されておくべきは、簡素簡潔にして凄まじく効果的な始まりの数行だ。

モスバーガー
火曜日
三時半
部屋から歩いて五分
駅のそばの店
駅の階段をおりてくる人たちがみえる
  夏

すべてがあるではないか。表現すべきことなど、他にはない。「モスバーガー」が澄んだ波紋をひろげて詩的永遠の中に位置を占めた瞬間である。それが「火曜日」、「三時半」、「部屋から五分」、「駅のそばの店」、「駅の階段をおりてくる人たちがみえる」、「夏」へと続いていく中で、氏にしか作り得ない、なにか絶対的な始まりというべきものの波が織り成された。ただならぬ波だ。衰退などない、終わりなどなかったのだ、と私は思い直す。
出発だ!



*「ひょうたん」45号(ひょうたん倶楽部発行、20111115日発行)